共感と大衆性

本文に入る前に手短に書いておくが、10月号から「短歌研究」の短歌時評欄が消えた。2号続けて掲載がなく、誌面上に特に説明もないため、廃止されたと見てよいだろう。これは由々しき事態である。時評とは何を論じるか含めて評者に委ねられた批評の場であり、あらかじめテーマを設定された上で書くことになる特集記事よりも自由の保障された欄である。それをなくすのは、媒体における言論の自由の度合を弱める方へ舵を切ったと見なしうる行為である。特集を通じて「ブーム」を牽引し、現在の短歌のもっとも旬なものを取り上げようという自負があるのは分かるが、媒体のなかの風通しとしての批判の機会があらかじめ奪われているとすれば、それは結局のところ権威化と腐敗の始まりでしかない。そんな雑誌が、歌壇唯一の評論の新人賞である現代短歌評論賞を有していると思うと、頭が痛くなってくる。当たり前だが、同じ「取り上げる」という行為にあっても、批評的側面と言及的側面がある。蓄積と拡散のモデルの違いと言い換えることもできるだろう。書き手側がどれだけ腐心して批評の蓄積を図ったところで、媒体側が言及の拡散にばかり肩入れしていれば、育つはずの批評の芽も枯れてしまう。言論を育む側であるはずの媒体として、この選択は如何なものか。

 

 

川本千栄『キマイラ文語』(現代短歌社新書・2022年9月)はたくさんの問いかけに満ちた一冊である。ただ私は、率直に言って、この本の副題である「もうやめませんか?「文語/口語」の線引き」に見られる文語/口語の区分けの捉え直しが、果たしてこの本の主眼であるのかどうか、読みながら何度も迷ってしまった。

本の構成のせいもあるかもしれない。一冊のうち、Ⅲ章の「ニューウェーブ世代の検証」が半分以上を占めている。たしかにこれらの論考は、川本の「あとがき」にあるように「「口語」繋がり」でまとめられるものかもしれない。けれど私は、一見すると20年間一貫した問題意識に貫かれているようでありつつ、実は論の運びとしては結構重要な綻びがあって、その綻びが2001年当時より2022年現在の方がより大きくなってしまっているのではないかと見ている。

――少し寄り道を挟みながら、ゆっくり読んでみようと思う。

川本は安田純生の著作に倣い、「文語」と一括りにされて理解されがちなそれを、かつて存在した言語体系としての古語と、形は古語に似通っているが現在使われている言語(いわゆる「口語」)からの類推によって形成される用例としてのカッコつきの〈文語〉とに分けて考えようと試みる。「誰しも自分が日常使っている言語で思考するので、こうした類推をせずに文語を使うことは難しい」という前提のもと、川本は次のように述べる。

 

 本来の文語は、古語であり死語だから変化しない。一方の〈文語〉は、近代から現代へと少しずつ変化してきた。ほとんどが短歌や俳句の中でのみ使われる詩歌語とは言え、生きて使われている言語だからこそ変化するのだ。
 つまり、言ってみれば〈文語〉は口語のふりをした現代語なのだ。文語っぽい意匠を施されているが、現代語の言語体系の中で使われている言語だ。〈文語〉も口語も現代語である以上、短歌の中での混用も当然起こる。こう考えてみれば総合誌などによく特集される、文語短歌か口語短歌かという線引きは、意味を成さないのではないだろうか。
(川本千栄「ら抜き言葉と創作文語」「六花」vol.4・2019年11月→『キマイラ文語』)

 

たしかに私たちは、通常「生きて使われている言語」以外を敢えて使う機会はほとんど無い。ある語を選び使用することそれ自体が新たな用例を生み出す行為であるし、あるいは語を生き返らせることもあり得る。いわゆる「文語/口語」の対比が、「古語/現代語」や「書き言葉/話し言葉」など複数の対比がぼんやりとした印象のなかに巻き込まれる形で為された曖昧な区分でしかなく、詩歌という場面に限られるにせよ現在でも使用されているそれらは「文語」ではなく「現代語」の一例としての〈文語〉として向き合う方がより正確なのではないか、という川本の指摘には首肯する。

ただ一方で、上記のように〈文語〉を捉え直すのであれば、「誰しも自分が日常使っている言語で思考するので」という前提には一度立ち止まって考えてみた方が良いのではないか、という思いもする。詩歌における〈文語〉を「現代語」のなかに置き直すのであれば、作歌を通じて〈文語〉の用例をみずからの内に積み重ねていく行為とは、個々人における「日常使っている言語」そのものを少しずつずらしたり、変質させたりしていくことに繋がる。〈文語〉の可変性について川本は視野に入れているが、それは実態としては用例を伴った行為、すなわち語の使用の現場における流動性ではないか。それゆえ、「日常使っている言語」という前提は、作歌という現場の感覚においては常に揺らぎ続けているものであり、線引きの論拠としては弱いのではないかと思われる。

こういう時、私は前田透が歌人を「二重言語実践者」だと規定していた例を思い出す。ちょっと唐突だが、少しだけ必要な脇道を引いておく。

前田は自作の〈河くらく流れてをれりよるしほやがてのぼらむわが去りてのち〉(『漂流の季節』白玉書房・1953年10月)について、着想時点では「河がくらく夜のなかを流れている……」という口語形であったが、歌としては文語形を取ったという説明をする。

ここまでなら、今更敢えて引くまでもない、よくある言説だ。だが前田はこの後、文中で「それは口語から文語への翻訳ではなく、フランス語とドイツ語を知っている者が、パリでフランス語を話しボンでドイツ語を話すと同じことである」と念押しをする。「ある想念に打たれたとき、言葉が同時的に照らし出される」、「ある言葉のかたちで思い浮かべたものが歌であるということになる。その言葉のかたちは短歌のばあいは文語を基礎にしている」と捉える前田において、〈文語〉とはすでにそれ自体において思考を担うものであり、作歌という別の「日常」を生きるための言語であったと言える。

 

 文芸では文語形にくらべて、口語形の方が進歩している、とは言えない。詩をつくるのに口語形の方が上等だとも言えない。どちらかでなくてはならぬ、と決めることはいずれにしても馬鹿げている。歌人といえども、日常語を文語形で話したり書いたりはしない。歌をつくる場合に文語形で発想するということは、二重言語を実践していることだ。歌人は、文語、口語の二重言語生活を実践することのできる者である。その実践は作品の中でも行ない得る。口語形の発想の方が鋭利な場合はそうすればいい。歌人は二重言語実践者であることにもっと自信をもっていいのではないか。
(前田透「二重言語実践者」「詩歌」1979年3月号→『短歌と表現』不識書院・1980年11月)

 

別の作歌入門的文章でも、「言葉をはりつけるのではなく、思いを背負って出て来る言葉を捉えたい。平凡な言葉でも、思いを背負って出て来るとき、つまり、作者の内部から直接出て来るとき、それは詩の言葉なのです」と前田は書く(「作歌のアドバイス」「ミセス」1976年)。「作者の内部」などという、読者からは感知不能のものを平気で出してくるあたり、やや面食らってしまうが、言語表現の主観性や自律性に重きを置いていると読めば納得はいく。

ここで、川本の〈文語〉観と並べてみると、〈文語〉を詩歌において今現在使われるものだとする結論は同じであっても、思考それ自体は「日常使っている言語」で為され、表現として敢えて意志的に選択されるものが〈文語〉であると捉える川本と、思考と表現は切り離せないものであり、〈文語〉それ自体が作品の着想の根幹に関わっているとする前田とでは、かなり異なった見解であることが分かる。

これは言い換えるなら、言葉というものを表現の手段と捉えるか否か、記号内容(signifié)と記号表現(signifiant)の関係をどう扱うかの違いである。また、言語表現というものの発現を、体系の共有という読者側の視点から見るか、用例の主観的な特殊性という作者側の視点から見るかの相違とも言えるだろう。

この補助線を引いたまま、再び『キマイラ文語』に戻ってみる。ニューウェーブ世代(俵万智、加藤治郎、荻原裕幸、水原紫苑、穂村弘)を扱った2001年時点の論考を読むと、「共有」の問題が川本の批評においてもとりわけ重要であることが読み取れる。

 

 しかし米川[千嘉子]のこれらの教師詠は一般的読者には受け入れ難いものであろう。人によっては自分が中学や高校時代に教師から受けた傷を生々しく再現される可能性もある。「ああそう言えばあの時先生に言われたことは嫌だった」ということを思い出すのは楽しいことではない。また、『サラダ記念日』や『夏空の櫂』が出た時代はバブル高揚期であり、「楽しくなければいけない」時代であった。「ネクラ」は何より嫌われた。
(川本千栄「俵万智の教師詠」「勝手に合評」2001年6月→『キマイラ文語』)

 

 それに引き換え、『客人』においては、作者なりの世界の構築のしかたが慎重でないように思える。作者は無防備に「われは○○」と言い切るだけである。また、「われ」の把握の部分以外からも、一首中の語同士の確実なつながりや説得力は失せている。作者と読者は意味のみでつながっているわけではないが、あまりにも意味上の理解が追いつかないため、私は頭の中で映像を浮かび上がらせることができない。読者がその世界を共有できるかできないかに対する関心を作者はどのぐらい持っているのであろうか。
(川本千栄「水原紫苑の「われ」「勝手に合評」2001年9月→『キマイラ文語』」)

 

これらの論で前提とされているのは、「作者なりの世界の構築」の結果としての作品と、それを「共有」するための手段としての題材や語の選択という構図であり、それは既に見た川本の〈文語〉観、「日常使っている言語」とは別の言語体系を表現手段として使用するという〈文語〉観とも一致する。また、加藤治郎や荻原裕幸の作品を分析する際に「くどさ」を指摘するのも、「日常使っている言語」の用例からの逸脱としての、過剰な異化に対する「くどさ」の指摘であり、要するにこれらは、そこにある言葉が読者にとって「共有」され得るものか否かという観点から為された批評である。

この観点を即座に不適切だとするつもりは私にはない。なぜなら的を射ていないわけではないからだ。「穂村弘の評論」(「勝手に合評」2001年10月)において、川本は穂村が用いる用語について「自分の気持にぴったりの語を探すあまり、批評用語を創作してしまったのだろうが、それらは批評用語として使うにはあまりにも抽象的で主観的だ」「私にはこの言葉が何人もの人間が共通の批評用語として使うに耐えるとは思えない」「穂村弘が『短爆』で行なったのは、理性に訴える評論ではなく、感情に訴えるアジテーションなのである」と厳しく書いているのは、もっともなことだと私も思う。穂村の批評用語の引力圏から逃れるための20年として、21世紀の短歌批評を捉えることすら可能だろう。

しかし、そもそも穂村弘の批評の数々が、川本のような「何人ものの人間が共通の批評用語として使うに耐える」言葉を生み出す目的で為されたものではなかったとしたら、どうだろうか。

一番の「わがまま」は穂村弘だった、と言えばそれまでかもしれない。だが、そうすると、良く言えば機知に富んだ、悪く言えば主観的な色合いの強い穂村の批評に、どうしてあれだけの注目が集まったのか、批評用語の「共有」の是非という観点だけでは説明ができないのではないだろうか。そもそも、のちに穂村が用いることになる「共感と驚異」「圧縮と解凍」といった分かりやすい対比構造も含めて、穂村の論にはどこか「共有」されることを拒み、主観的な「私」の言葉に頼ろうとする一面がある。たとえば、次のように。

 

(…)近年の若者たちの言葉は「ありのままの君でいいんだよ」「しあわせは自分の心が決める」的な「共感」寄りにシフトしているようにみえる。これは何を意味しているのだろう。そうならなくてはサバイバルできないほど生存のための状況が厳しくなっているということか。だが「驚異」を求めて無謀な賭けに出る者がいなくなると世界は更新されなくなる。彼らの言葉の安らかさは、より大きな世界の滅びを予感させるのだ。
(「共感と驚異2」『整形前夜』講談社・2009年4月)

 

穂村の論は「穂村にとってそれらの歌が「どのように見えた」のか、その一人称の視点から語られた短歌観」によって成立していると、すでに大井学は書いている(「「わがまま」をめぐって[3]――幻視継承者穂村弘のmanifesto」「Tri」第7号・2019年5月)。穂村の批評の一人称性や主観性はたしかに川本の指摘するように曖昧さや矛盾を生み出すものであるが、一方で、何の真理も示せていない戯言であるかと言えばそうではない。それは結局、川本と前田では〈文語〉観の前提がすれ違うのと同様に、批評の言葉に対するそもそもの前提が、殊に「共有」や主観性において川本と穂村の間で異なっていた、という話に落ち着いてしまうのではないだろうか。

それに、『キマイラ文語』一冊を通じて常に主観的な物言いが批判の対象となっているかと言えば、そうではない。前半のⅠ章やⅡ章の文章は、私からすれば割としっかり目に、歌の作者や川本自身の主観に基づいた分析である。そして、それゆえに私は前半の論考の方を面白く読んだのである。

たとえば、「香川景樹が「旧派」となるまで」(「塔」2021年10月号)では、景樹の〈根を絶えてさざれの上に咲きにけり雨に流れし河原なでしこ〉を正岡子規が「理屈はだめだと主張しているくせに理屈がある、と批判する」ことに異を唱え、「この歌は理屈というより景樹が実景として見た花の一回性の状況であ」るとして評価する。また、「短歌口語化の伏流水~古語を使う人々」(「現代短歌」2021年11月号)では、小池光島田修三河野裕子の歩みを概観して「ここに挙げた歌人たちは前衛短歌の影響を強く受けた世代でありながら、先行世代の目指した非日常の丈高い歌に次第に嘘くささを感じ、八〇年代から九〇年代にかけて、日常をリアリティを以て詠った。彼らはもう一度リアリズムの地に足を下ろし、その際、文語寄りであったミックス語を口語寄りへと押し進めた」と書く。

一方で、書き下ろしの「繋がないままの歌――時間感覚の変容を中心に」では、永井祐の歌に見られる現在時制の並置を「たとえ詩歌の中とは言え、現在の時点から、過去の助動詞を使って、ある長さの時間を構成し編集するのは不自然だという体感」「ツイッター的な時間感覚」と評し、「永井はむしろ、そうした従来の、時間を俯瞰する意識を排除しようとしており、それが過剰になり過ぎたいくつかの歌は、小学生の絵日記のようになってしまうのではないか」と苦言を呈する。

この違いは一体何だろうか。私はここに、川本が主観的なものに対して明らかな選別を行っていると見る。

「実景」の「一回性」を何故、作者その人でない読者が評価できるのか。「共有」可能な言葉で書かれているからだ。歌に描かれた“それ”を何故「日常」の「リアリティ」として読み取ることができるのか。〈文語〉が持つ「共有」の力と、〈口語〉に「等身大の日常」を見出し「共有」する価値観があるからだ。ではどうして、「時間を俯瞰する意識を排除しよう」とする表現行為が認められないのか。これまでに「共有」された言葉や価値観に反するからだ――。

これでは「共有」が大衆性(popularity)の安易な、その流動性を見失った形での言い換えでしかないのではないか。そうなると、目論見は「共有」そのものの追求ではなく、特異性の否定へと容易に変貌してしまう。更に、批評言語の「共有」や〈文語〉の「共有」と言った時に想定され得る観念を、みずからの引き寄せられる範囲でのみ「共有」していると書いてしまえば、それは結局のところ主観的批評以外の何ものでもない。だから、『キマイラ文語』をⅠ章から順に読んでいくと、私にはⅢ章の批評が、その後の川本自身の論理の退路を断ってしまっているように見えて、息苦しい。

リアリズムの地盤からナチュラリズムが成育するのは当然の径路であるが、日本型自然主義が「アララギ」の現実主義の土壌に根付いたことによって、そこに継承された子規のリアリズムは生気を失っていったと言えよう」とは、先にも引いた前田透の言葉である(「根源的なるものへ――リアリズムとナチュラリズムのあいだ」「短歌現代」1980年1月号→『短歌と表現』)。更に時代を遡れば、「赤彦は、子規の客観的な写生論を、観念的な方向にゆがめた」「けっきょく赤彦は、短歌制作をば人間の自己完成の道と考えるにいたった。(…)抒情詩創作を、たんに自然な感動の言語化としてではなく、人格の発現、修養と薫陶と努力との結実と定義させたのである。(…)この定式は、文学におけるディレッタントや隠居趣味の侵入・横行を防ぐに役立ったけれど、同時に、歌の世界の自己閉鎖には、より多く役立った」という杉浦民平の言葉がある(『現代短歌 茂吉・文明以後』弘文堂・1959年12月)。そういえば今年は斎藤茂吉生誕140年であったわけだが、10年前の生誕130年の時、岡井隆は鼎談で次のように語っていた。

 

岡井(…)『赤光』の歌は民衆が真似できないでしょう。おっしゃるごとく茂吉は変な人ですよ。平凡な歌ばかりだなあと思っていたら、バーンとすごいのが一冊の歌集の中に数編出てくる。これは無視できないなあと思っていると、前に平凡だと思っていたのもそれの助走路みたいなものかなと思って評価したりするじゃないですか。これは民衆路線ではない。その後近代文学が変わり、近代短歌も変わった。それはプロレタリア文学とかああいったのが入ってきたことも非常に大きいと思うのですが、短歌も一種のポピュリズム、民衆が使いやすい、作りやすい道具化した経路かなと思うんだ。
 『赤光』のままでずっと、品田[悦一]さん的に言うと堕落しないで行ったら、それはアルチュール・ランボーですよ。だれも真似なんてできない。あれ、ポピュリズムへと堕落してくれたお陰で真似できるんだ。斎藤茂吉の真似もできるし、土屋文明にしても、あるいは島木赤彦にしてもそうなって行った。
(岡井隆・品田悦一・川野里子「今、茂吉を読む意義とは」「短歌」2012年5月号)

 

無論、彼らのこうした発言や文章の部分のみを切り取ることは、彼らの背負った文脈師系その他歴史性を切り離してしまう可能性のある危うい行為でもあるわけだが、それでもここで敢えて引用したのは、近代以来の短歌史を踏まえる上で、大衆性とリアリズムはあまりに結託し過ぎてきたと繰り返し思うからだ。リアリズムは本来もっと孤独な、個別の主観性に立脚した営みであったはずではないか。私にはそれゆえ『キマイラ文語』における「共有」の視点には、若干の異を唱えたいと思うのである。

ところで、私が前田透の歌や批評と出会うきっかけになったのは、川本の第1評論集『深層への対話』(青磁社・2012年6月)であった。今読み返してみても、たとえば「「戦地」という異国」(初出:「ダーツ」5号・2004年8月)での従軍経験歌人たち(渡辺直己、前田透、山崎方代)の作品の読みは、作者それぞれの視点に肉薄していく力強さがあり面白い。これも別に付言でもなんでもなく、私の今回の文章の重要な骨肉の一部である。