やっぱり「ブーム」の話からしておこう。
短歌ブーム、については、個人的にはこの15年ほどの、常に短歌が若者に普及していく裾野を眺めていたので、昨日今日で沸いたような劇的な変化の実感はないのだけれど。当欄の前回の記事、濱松さんの「これからのわたしたちが語るために」の冒頭、「ブームって搾取だよなと思う。」から続く、
今さかんに喧伝されている「短歌ブーム」というのは、巨視的に見れば、SNS等によって加速化した“あなたにとって最適な何か”の提案(それは当然のように何らかの「市場」を「回す」ことが想定されている)のなかに、短歌が「おすすめ」として潜り込みやすくなった現象だと言える。
(濱松哲朗「これからのわたしたちが語るために」砂子屋書房2022年12月)
この把握はなるほどと思った。確かに、多様なカルチャーの中で、そもそも選択肢の一つに短歌がサジェストされるようになった、というのはこれまでより明らかにもう一段階抜けたところにある。
多くの人にとって、選択肢として短歌が「ある」という状態。余談ではあるが、穂村弘・沢田康彦・東直子による『短歌があるじゃないか』(角川書店)の単行本が刊行されたのは2004年、その前身の『短歌はプロに訊け!』(本の雑誌社)が2000年。この時代にSNSはまだ無く、短歌はメールとFAXによってやり取りされている。余談終わり。
状況を追えば、新進の出版社による歌集の刊行点数の増加や、書店での歌集の扱いが広がったことなど、明確な結果がここ数年で視認できるようになった。それでようやく「ブーム」に気づいた外側からも言われるようになって定着したのがいまここ、のような感じだろうか。勿論、個々の事象はそれぞれの出版社や書店の中の人たちによる営業努力の結果なのだが。
で。メディアの記事のなかで、なぜ短歌がブームなんでしょうか、って話になると、和歌から続く日本の伝統、SNSとの親和性の高さ、あたりが決まって取り上げられる。
短歌批評などを手がける書評家の渡辺祐真氏は、短歌とSNSの短文との親和性を指摘する。俳句は季語などのルールがあり、小説は文を重ねる必要がある。「ちょうどよい文字数で自由に詠める短歌が若者のニーズに合った」新型コロナウイルス禍も拍車をかけた。渡辺氏は「直接会えないからこそ、言葉で他者とつながることが見直されたのでは」と分析する。
(日本経済新聞2023年1月1日配信・「スマホの中、31音の共感」)
それは全く間違っていないし、私自身もそう説明してしまうことだってあるんだけど、いかにもの方便というか、外向けのロジックに見えてしまう。
(もちろんこれには、新聞などでは限られた紙幅で纏める際に、どうしても似たような言い回しになる、という部分もあって、先の記事でコメントを寄せている渡辺祐真氏にしても、短歌研究2022年8月号の岡野大嗣インタビューなど、もっと精緻な把握をしている。)
ブームに対しての、あるいは個々の出来事に対する分析は、「短歌研究」2022年8月号の特集や、2022年の各誌の年間回顧系の記事を含め、既に多くの方が行っている。総合誌でもウェブの記事でも、書店員や版元の編集者など、マーケットの側の声を聞く企画も多くなった。それにより『短歌がある』状態なのはよく分かったけれども、『なぜ短歌なのか』、ブームをそのものの引き合いに出されるロジック自体は、この10年あまり変わっていないように思う。
そろそろSNSと短歌は親和性が高い、の次の話を考えたい。SNSが普及した以降の、SNSによって普及した短歌は、読者としての鑑賞体験も、作者としての制作環境も、これまでとは異なるものになっている筈だ。その変質した部分によってこそ、短歌はこれまでより『おすすめ』されやすく、ブームが可視化されるくらいには人口に膾炙していったのではないか。
SNSと短歌の親和性、について、もう一度濱松の『安心自由帳』から引く。
三十一文字に対する手軽さの感覚は、140字という別の字数制限に馴れた者にとってはより鮮やかでかつ軽やかに見えたことだろう。その上、SNSは私たちの認識のあり方にも変化をもたらした。もはや死語となりつつある気もするが、「エモい」や「映える」といった発想の拡大と通俗化にSNSは大きく貢献した。あるいは「バズる」という現象。私たちはそこで、より良くデザインされた言葉の構築物が持て囃しや炎上の対象となることを学んだ。短歌の定型が拡散のために最適化されたデザインであるとはさすがに私も思わないが、しかしこれまでにも、ニュース記事の見出しやWikipediaの記述のなかに五七調や七五調の気配やリズムの良さを察知するケースは多く見られた。短歌が短歌として読まれることよりも、ある文字列が五七五七七というデザインに流し込まれた成果物として見えることが、短歌定型が「いいね」的価値観と結託する上で重要だったのではないか。
(濱松哲郎「これからのわたしたちが語るために」/砂子屋書房2022年12月)
ここで述べられているポイントを二つに切り分ける。まずはSNSが私たちの認識のあり方に変化をもたらした、という指摘と、SNS自体の定型性と、57577の定型性の近しさについての指摘。
『短歌定型が「いいね」的価値観と結託する』とはどういうことか。SNS的な価値観が短歌定型に普及することで、短歌定型自体のSNS的な機能が、SNS前史と比べて(それこそ『短歌があるじゃないか』の「猫又」のようなFAXやメールでやりとりしていたコミュニティに比べても)格段に強化されているのではないだろうか。濱松の論はそこから、作者としての「SNS的に振る舞わされてしまっている私たち」の問題へと展開する。
黒瀬珂瀾は「短歌研究」2022年12月の「短歌2022年の記憶 書き留めておきたいこと」という回顧記事で、2022年9月に短歌研究社より刊行された『アイドル歌会公式歌集Ⅰ』を引き合いに出しつつ、アイドルの発信する短歌について、『もともとは感情を伝える手紙であった〈うた〉の本来の姿であり、かつ、「メッセージをパッケージする便利な形」の応酬』であると述べる。
メディアの人々や世間が発見したのは短歌文化の体系ではない。日本古来の伝統文化が現代に再発見されたのでは決してない。言葉をフレーズ化しエモいコンテンツとして流通させる目新しいツールとして現代定型句が創出された。短歌ブームにおける短歌とはユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリである。だからSNSと相性が良い、というか短歌自体がSNS性を発揮した。
(中略)エモさ、スピード感、ポータブル性、簡便さ、それらの接点によりさまざまな経済原理と短歌が結びつく。短歌というコンテンツは他コンテンツの代替物として発見されてゆく。俳句ほど玄人っぽくない。現代詩ほど難しくない。そして、小説ほど読むのに時間も労力もかからない。例えば映画やドラマなどの映像コンテンツがサブスク配信化されたことで消費スピードがより一層上昇し、ダイジェストを勝手に編集配信するファスト映画などの問題が発生した。ネット上でも長文で詳細な解説記事は敬遠され、冒頭に総文字数や通読時間の目安を明示する習慣が広がる。そんな断片的な情報に消費者が偏重する時代、ファストな感情コンテンツとして短歌が活用されている、という側面は否定しきれまい。
(黒瀬珂瀾「お茶を飲んでいる話」/「短歌研究」2022年12月号)
『ファストな感情コンテンツとして短歌が活用』されているのは、もちろんアイドルの現場に限らない。
ここで肝心なのは、短歌というツールが、今日のブームによってメディアにとって新しく発見されたものである、と同時に、「ファストな感情コンテンツ」としての短歌それ自体は昨今新しく出てきたものではなく、もとより短歌に備わっていた性質の一側面にすぎないというところだ。この、ツールとしての短歌の再発見が、SNS以降の短歌を流行たらしめたものだとして。果たしてそれが詩形そのものに不可逆な変化を与えるもの、であるかどうかはもう少し時間をかけて判断したい。
SNSと短歌、と言うときのSNSは、現状ほとんどの場合がTwitterを指す。
図らずも2022年は、このインフラのように依存していたSNSが一企業のWebサービスに過ぎず、CEOの気分次第ではある日突然無くなるかもしれない、ということを改めて思い知らされる年となった。まあ、会社の都合で突然無くなるかも、という意味では総合誌や出版社だって同じなのだけれども。