SNSについて②

 SNSにおける詩歌の受容のされ方を考えるとき、重要となるのは純粋読者の存在だ。SNSと短歌ブームは、これまで半ば架空のものとされてきた、「読み専」の読者層の存在を初めて可視化したと言える。
 純粋読者、というのはたとえばTwitterで短歌が流れてきたときに「いいね」をしたり拡散したりするようなライト層、「川柳と俳句と短歌の区別などつかない人がモテる人です/枡野浩一」としてここでは使いたい。「短歌研究」2022年8月号「短歌ブーム」の特集で述べられた、岡野大嗣の定義がわかりやすい。

 短歌に「純粋読者」がいない、という話題が出されるとき、そもそも「純粋読者」をどう定義しているのかが見えないことが多いように思います。「純粋読者」の定義が「短歌を詠まないけれども読む」という定義だと、あまりに雑だと思う。文芸好きの人が短歌に興味を持って読み始めることもあれば、元々そんなに本を詠まない人が短詩系だけをピンポイントで好きになることもある。短歌のどの側面に惹かれて興味を持ち始めたのか。音楽的側面に引かれた人、コピーライティング的側面に惹かれた人、大喜利的な側面に惹かれた人。色々あるはずですよね。(中略)
短歌は、SNSで流れてきた短歌を読むくらいの、そもそもそれを短歌ではなく「ちょっといい言葉」くらいに認識しているようなライトな「純粋読者」の方々だと、感想の語彙は「エモい」「わかる」の二つくらいしかないので(これは貶しているわけではなく)、音楽の「サビ」「イントロ」にあたるような用語を知ってもらうだけでも読むのが楽しくなる、いっそう深く味わえるようにあるよ、っていうのを伝えていけたらと思うことがあります。
(特集・「短歌ブーム」①岡野大嗣ロングインタビュー/短歌研究2022年8月号)

純粋読者にとっての「ちょっといい言葉」から「短歌」への導線がいかに引けるのか、という課題について、既に歌作を始めてしまっている側からも、考える必要がある。もう一度「短歌研究」2022年8月号を引く。岡野大嗣へのインタビューの中の、渡辺祐真/スケザネによる発言。

ただ、いまが「短歌ブーム」かはさておき、ツイッターなどで今よりは裾野が広がっているということはあるわけで、読み手の代表となるような人も増えていき、有名な歌を拾い読みするのではなく、ちゃんと一冊一冊の歌集に向き合っていくことを心がけていかなくてはならないと思うんです。(中略)
せっかく短歌は短くて共有もしやすいので、全部読んで自分の読みとして立ち向かっていくかという、読者としての覚悟は大事にしておきたい。
 これは読みを発信する立場の責任でもあり、紋切り型のような表現や定形的な言葉でわかり切ったように言うのは避けたい。
(特集・「短歌ブーム」①岡野大嗣ロングインタビュー/ 短歌研究2022年8月号)

 一冊の歌集に向き合うことの覚悟とは、具体的に何が求められるだろうか。
一首としての短歌と一冊としての歌集、の位相の違いは、昨今のブームによってより顕在化したと言える。
 現代の短歌は、歌人にとっては一首単位で流通することは少ない。歌集にしても、結社誌、総合誌にしても、新人賞投稿作としても、作歌の集積、ある種の束として受容されている。しかしながら、インターネットで特定の歌が「バズる」状況、あるいはコマーシャルとしての短歌作品の商業的な起用にしても、大抵の場合、短歌は一首の形としてそこにある。
 作り手にとっては連作も歌集もいつの間にか自明のもののようになっている部分、一首から複数首の単位に歌が編まれ、纏められるとき、そこで何が行われ、何が失われているのか、改めて考える必要があるのではないか。
 それこそ一冊の歌集から受け取ったものをある程度まとまった形で述べようとすると、それなりの技術的な読み方が必要になる。ではその技術とは何だろうか?我々は自分たちで思っている以上に、雰囲気で短歌をやっているのではないか。
 入門向けのワークショップの場では、歌集の「読み方」について聞かれることが時折あるけれど、これは短歌に限らなくて、他の表現ジャンル、例えば漫画でも、日常的に読む習慣のない立場から見れば、それこそコマ割りや視線誘導のレベルから難解なものとして映る。

 一首のフレーズとしての明快さで多くの人に読まれてきた(もちろんそれだけではないが)枡野浩一が、以前から繰り返し連作について否定的なスタンスを取っているのは興味深い。さらに枡野は歌集の収録歌数についても度々持論を述べており、例えば木下龍也『オールアラウンドユー』(ナナロク社)について以下のように書いている。

歌集一冊に収録されている短歌、多すぎ。と長年ずっと思ってきた。死ぬまでに読み終えることができるか心配になるレベル。本書収録作は一二三首、これくらいがいい。
枡野浩一「2022年の収穫」ねむらない樹vol.10)

 昨年左右社から刊行された『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』は全三五五首を収録しているが、この刊行によって作家論として広く枡野浩一作品が論じられ、改めて歌壇内外で言及される契機となった。これは書籍の形で作品が可視化されたことによる成果として重要なポイントだろう。これまで幅広く活動してきた枡野のクリエーションが、「全短歌集」と銘打たれることでようやく(ある程度)全貌が見渡せるようになったのだと言える。

 一首の短歌は一瞬で読まれ、受容される。もちろんそれはそのまま忘れられても構わない。誰かの記憶に少しでも残るようなことがあれば、せめて幸甚であると言えよう。だとしてもその先、一瞬で読めない一冊の歌集は、どのように編まれ、どのように読まれたらいいのだろうか。

 書肆侃侃房の新鋭歌人シリーズ以降、若手の歌集の収録歌数は減少傾向にある。これは本当に、どちらがいい、という話ではないけれど、今後ますます一冊の歌集は薄く・軽くなっていくのではないか。 それは、一面では読書体験自体のファスト化の潮流とも言えるし、歌集単位での短歌のあり方について、方法論が整備されていないからとも言えるだろう。
 さらに作り手の側に寄せて言えば、数百首規模の歌集を数年に一度、それこそ編年のように出し続けることのできる作者は、今後どれだけいるだろうか。それは作者の、あるいは出版社の経済的な要請や、もっと物理的に紙の値上がりなどの影響もあるかもしれない。ある歌人の成果物としての歌集のあり方と、出版物としての歌集のあり方は、そもそもすれ違っているものではなかったか。

 日々の生活の中で、読者としての可処分時間は年々少なくなっていくが、しかし、創作者としてクリエーションを続けるには、それぞれの人生はそれなりに長い。ひとりの歌人の生涯が込められた極厚の全歌集と向き合おうとする度に、わたしはいつも呆然としてしまう。