SNSについて③

 今年から砂子屋書房のホームページがアップデートされ、過去記事の参照と、検索機能が大変使いやすくなった。『日々のクオリア』『月のコラム』共に今年で15年目、2009年から14年分のアーカイブが存在することになる。

 15年前、個人的にはまだ物心がついた頃の話だけれど、出版社のWebサイトにコンテンツが掲載されること自体、かなり先進的であったと記憶している。むしろ当時の流行だったとも言えるだろうか。この15年でネットの様相もかなり変化し、SNS以前の個人サイトやブログ、掲示板の類も随分と散逸してしまった。管理を放棄されたウェブ廃墟が年々少なくなっていくのは残念な限りだが、尚のこと、出版社発信のコンテンツによるアーカイブの整備の重要性が増しているとも言える。

 インターネットにしかいないものは年々増えているけれど、必要なものがすべてネットで揃えられるようには(少なくとも短歌については)さらに時間がかかるだろう。短歌に限らず文字による表現は、メディアの性質に合わせて変化、変質しながら書き継がれてきたものであり、現代短歌のシステムは紙媒体と郵便制度を前提に成立している部分が大半だからだ。むしろ15年前(体感的には20年くらい?)から永遠に過渡期にあるのだとも言える。

 SNS上では、それこそ十五年前から定期的に短歌結社や新人賞などの制度面について盛り上がっている。(炎上、という言い方は敢えてここでは使わない。)
 長いスパンで見ればずっと同じような話を、プレイヤーを入れ替えながら回し続けるのがネットの議論の特徴と言えるのだが、そこで要望・提案されるアイデアのいくつかは、「もっと便利であればいいのに」というユーザー側の欲望(結社誌の詠草をメールで提出したい、とか。個人的には超わかるけど、それ実際にやるの大変な労力ですよね)に由来している。

 多くの人にとって便利で参加しやすい仕組みが整えられているに越したことはないのだけれど、そもそも結社はネットを前提に運営されていないし、必ずしもユーザーフレンドリーにする必要はないと思う。

 この手の話が盛り上がると、結社の良さをPRするために「運営(編集部)が親切」とか「会費が安い」のような売り文句を、その結社の会員の方が喧伝しているのを聞くことがある。勿論、それらは判断基準としては軽くない要素だし、外部からはわからない部分もあるので無意味とは思わないのだけれど、あくまでユーザーとしてのコメントだな、と感じることも多い。
スマホのキャリアを選ぶように結社に入り、それでお互い不幸な結果になったケースもいくらでもある。

ここでアーカイブを検索、「月のコラム」2013年5月、藤原龍一郎の文章を引く。

 私は以前に「短歌結社というものは、相撲部屋に似ている」と揶揄的に例えたことがある。自分の意志というより、おせっかいな知人や先輩につれられて、何もわからないままに入門させられてしまい、いざ、そこの指導法が、自分には合わないと気づいても、やめることはなかなかできない。無理にやめるとたくさんの不義理を残してしまうことになる。他の結社に移っても、生え抜きではないので、不都合やら、理不尽やらがまとわりついてきて、結局は短歌をやめてしまうことになりかねない。もちろん、現在は結社に所属せずに、短歌をつくり続けている人もたくさんいるわけだが、それはそれで、かなりのエネルギーを必要とする。やはり、作品発表の媒体としての短歌結社制度は、賛否はあっても、長く継続して短歌をつくっていくには、とても便利なシステムであることにいやおうなく気づかざるをえない。

藤原龍一郎「短歌結社の存在価値」

 わたしは相撲部屋に明るくないので前半は自信がないけれど、短歌結社自体が長期的・組織的なクリエーションを前提にした組織であることは理解しているつもりだ。

 既に結社に所属している側からすれば結社は自らのクリエーションの中核にあり、必須のインフラのように思ってしまうし、それこそ楽しさを伝えようと「おせっかいな知人や先輩」として他人にアドバイスしてしまうこともあるだろう。実際に聞いたことのあるセリフだと、それこそ、「本気で短歌をやるなら結社を選ぶべきだよ」みたいな……。別に新入会員を紹介するとキックバックがあるとか、そういう世界でもないのに、基本的に多くの人が善意でおせっかいだと思う。そういう人は結社に向いているとも言えるのかも知れない。

 しかし、短歌に対して長期的・組織的なクリエーションを志向していない人だっていくらでもいるし、個人の性質としての向き不向きも(指導法だけではなくて、それこそ郵便制度との相性とか、本人の気質とか、その程度の話から)ある。結社に所属することそれ自体が10年前に比べても(といいつつ10年前も同じことを言われていたが)、もはや自明なことではない。短歌結社は会員が経済的・時間的負担を持ち寄って運営している互助的な側面もあるので、その部分での限界もある。

 ちなみに。先に挙げた藤原の文章が2013年。相撲部屋と言えば、時津風部屋の力士暴行死事件(いわゆる「かわいがり」が流行語のように、世間に広く知られるようになった)が2007年である。時代の流れとして、指導を含む上下関係や組織性から暴力やハラスメントをいかに取り除いていくか、というのは体育会系・文化系のジャンルを問わずその後の大きな課題となっていったが、それこそ「かわいがり」のような、問題を矮小化しようとするロジックはどの界隈でも未だに繰り返されている。