肯定と抵抗①

 短歌はどのような欲望で作られるジャンルであるのか、ということと、SNSはどのような欲望で転がっていく社会なのか、ということを度々考える。
インターネット以降に短歌を作り始めた人間にとって、そこに確実に相関関係はあるし、その特性について「インターネット以前」の世代との違いを考えることも重要なのだけれども。繰り返しになるが、短歌は、ネットに限らず、時代それぞれのコミュニティやメディアによってそれぞれの影響下に発達していく/影響を受けやすいジャンルであるということだ。

 山田航による朝日新聞の短歌時評の最終回。「波」2023年2月号に掲載された三宅香帆のエッセイ「物語のふちでおしゃべり」による短歌ブームの紹介を引用して、以下のように述べている。

 「SNSと短歌は相性が良い」という言説はこれまでもたびたびなされてきたが、三宅はそれに加えて「日々の合間にさらっと楽しむことのできる言葉の大喜利であり、疲れた読者を肯定する」ことが現代短歌の特性だと指摘する。現代短歌の魅力を伝えるための好意的な表現として書かれているのだが、私はこれをむしろ現代短歌への鋭い批判のように受け取った。「ささやかな癒しと微笑みをくれる言葉の集積」という実用的なものとして受容されてしまうのは、作風の固定化をもたらす危険をはらむのではないか。
 かといって、保守反動的に古典回帰志向に走るのも良いことではないだろう。短歌に限らず、「こういうものだ」と固定化する動きから以下に逃走するかが文学の生命を支える。「癒し」や「肯定」からの逃走が、これからしばらく現代短歌の課題となるのではないか。

短歌時評「肯定からの逃走」山田航(朝日新聞2023年3月19日)

 三宅の論調は近年のブームによって短歌を見出した読者(岡野大嗣の言う「ライトユーザー」)にとっての「実用性」の話であり、山田はそれを受けて、読者層に一傾向としての「癒しと微笑み」ばかりが受容されることで、作者側の志向が固定化してしまう(「癒し」や「肯定」のための実用性のある歌ばかりになる)ことを危惧している。

 ここで考えたいのは、「癒し」や「肯定」への欲望は、当然ながら作者の側にも前提としてあるということだ。
ネットに限らず、新聞歌壇や各種の公募欄でも、その多くが素朴で最大公約数的な共感と承認で満たされている。
投稿者が、公募の選者を含めた想定する読者像へ自作を届けようとするとき、作歌の営為そのものが、時に作者自身にとっての『「癒し」や「肯定」』を肯定する作用を持つ。そしてそれは公募という領域においては、選者による承認=選と評によって、作者の外部からさらにもう一段階肯定されることになる。

 選者ー投稿者の権力関係を一旦無視したとして、参加者が建前上フラットな場ではどうだろうか。たとえば非結社のオープン歌会や『うたの日』のような場においても他者による「選と評」は、場や共同体の価値観を強化再生産する働きを持つ。とりわけ、自分の中の当たり判定が無い初学者にとっては、場の価値観から当て感を学ぶしか無い。
 特定の場で、短歌のある種の「実用性」の側面を強く求める人がマジョリティになれば、そこでは実用性の高い歌が評価され、長いスパンで見るとその場では「作風の固定化」が起きる、と言えるかも知れない。

 癒やしや肯定を目的とした最大公約数的な共感は、秀歌のひとつの指針として既に短歌のシステムの中に組み込まれている。これは、最近はわかりやすく共感できる短歌がブームだから、売れているから、評価されているから、というような短絡的なマーケティングの話ではない。
おそらく表現としてもっと手前、作者が読者に何かを届けようとするときの共感を求めるスタンス、あなたにとってなるべく善きものでありたいというプリミティブな願望が根底にはあるのではないだろうか。意味内容のポジティブ/ネガティブさとは関係なく、詩歌はコミュニケーションとして、性善説的な言葉の運用が期待される側面がある。
ここで言う「あなたにとって善きものでありたい」が適切でなければ、もっと身も蓋もなく「人から褒められたい」でもいい。(「詩歌の神様に愛されたい」は対人以上の上位存在のことを考えなければいけないのでここでは省く)

 共感と承認については、これまでの限られたコミュニティにおいては作り手同士の相互交換で事足りていた部分が、SNSによってその需要が可視化され、にわかなバブルとなって供給がそちら側へ加速しているのが現在の状況だとも言える。
しかし、「共感したい/共感されたい」も「癒やされたい/癒やしたい」も欲望としてはもともと短歌に備わっている機能の一側面であって。プレーヤーとしてブームの恩恵を受けても受けていなくても、まずはこれを前提としておきたい。

 その上で。癒やしも共感もあくまで短歌の一側面でしか無い、ことを理解した上で。それ以外の側面をいかに実用性を求める層に提示できるかというのが課題になるのだけれど、短歌はどうしても『実用性』に弱いんですよね。自分たちのことを本来『底荷』だとか思っちゃうから。