肯定と抵抗②

実用性、についてもう少しだけ続けてこのページを終わる。

作者が読者に何かを届けようとするときの共感を求めるスタンス、あなたにとってなるべく善きものでありたいというプリミティブな願望があるのではないか……という文章を前回書いたときに、念頭にあったものの一つが、柴田葵『母の愛、僕のラブ』のあとがきと、それにまつわる「ねむらない樹」vol.5 の宇都宮敦・斉藤斎藤・花山周子による座談会であった。

これから書く私のことは、忘れてしまってほしいとおもいます。
なぜなら、笹井宏之賞を受賞したのは私自身ではなく、私の短歌だからです。(略)
たぶん、あなたの手にあるその短歌は、あなたです。
私のなかから生まれた短歌ですが、その短歌は私ではありません。あなたにしてください。
私のことは忘れて、あなたにしてください。

柴田葵『母の愛、僕のラブ』

花山 もちろん、作品は発表されたら作者のものではない、読者が自由に解釈していい、というのは前提です。でも、「あなたにしてください」と言われると、読者の私は抵抗がある。(中略)短歌における三人称的なわたしが、「あとがき」に外注されてる感じがするんです。

座談会 コロナ禍のいま短歌の私性を考える
「ねむらない樹」vol.5

歌集のあとがき全体を踏まえると、内容のウェイトとしては「あなたにしてください」よりも、どちらかというと「その短歌は私ではありません」……作中主体と作者を混同したがる読み筋への牽制の方にあると感じた。けれども一方で「これがなんで私の歌なんだよ」という花山の感じた抵抗も納得できる。

差し出すことと受け取られること、共感のやりとり自体を前提とした性善説的な振る舞いは、そこに組み込まれない外側から見ると、時にひどく傲慢にも見える。

もちろん、共感のやりとり自体をネガティブに感じているわけではない。一首の歌が、一冊の歌集が、誰かのお守りになったり、救いになったり、することはとても素晴らしいし、現にそのような感想は様々な歌集に対して溢れている。
より多くのひとへお守りとして頒布され、拡散される過程で、その歌は(それがたとえ一瞬のバスであれ)時代の愛唱歌として機能する。それ自体は尊いことである。

(とはいえ、共感性の強いモチーフを用いれば多くの共感が得られるわけではなくて、愛唱歌には「構文と文体」の要素が大きい。(という意味でやはり短歌はSNSと親和性が高いのではないか。品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)の「頻出ツイート100選」(削除済み)を受けた伊舎堂仁の「頻出ツイート100選 短歌編」https://note.com/gegegege_/n/n09b038a7ac84を見ると、特定のタイムライン上のわたしたちの琴線や弱点がうっすら浮かんでざらついた気持ちになった。余談終わり)

共感、の他の有り様はないだろうか。共感のベクトルを読者に向けない作品についてはどうだろう。
角川『短歌』2022年12月号の
山下雅人による時評では、能にモチーフを得た馬場あき子と、『「推し」の先導者ともいえる」榊原紘を比較する。

時代背景も短歌のモチーフも大きく隔たる、たとえば馬場あき子の『無限花序』と榊原紘の『悪友』とを単純に比較することはできないし、推しの短歌の是非を問うこと自体にもあまり意味はないだろう。ただし「自分がこの世に繋ぎとめられている理由があるとすれば、それは何か」ということにおいてクロスすることは指摘しておきたい。

山下雅人「この世の重力に抗って短歌は「舞い」「推す」」
『短歌』2022年12月号

『無限花序』における謡曲「橋姫」の主題については『短歌』2020年10月号で尾崎まゆみが「古典と現代、彼岸と此岸を行き来して、縄を綯うように言葉をより合わせると、私の心情と大きな物語の境界線が曖昧になり、無理なく境界線を超えられる」と評している。

推し短歌もそうだが、元となる作品へのアプローチや共感が前提となるタイプの作品が、結果的に作者自身の手付きや固有性と結びついているのが興味深い。主題制作的なスタイルについては、共感よりも、作者の欲望がどこに現れているのか、という解釈が重要になってくるため、読者のリテラシーが強く問われることになる。あるいは、共感を原典に仮託することで作者自身のスタンスが明確になる、と言えるかもしれない。

山田航の言う「「癒し」や「肯定」からの逃走」の可能性は、いまのところ、読者側が担っている部分が大きいのではないだろうか。癒やしや肯定以外の回路で作品を鑑賞することのできる視点がなるべく用意されたほうがいい。理想を言えば、それを作者の想定していない読者から届けることができれば。共感できないもののほうが本来語るべきチャンネルは多いはずで、だからこそなるべく風通しのいい環境であってほしいと思う。

わたしはあなたになりえないし、そのような義理も筋合いもない。なのでせめて詩歌の形で差し出されたものに関しては、最低限の敬意をもってなるべくよき読者であろうとする、のが関の山ではないか。
分かりあえないことを前提に、それぞれのやり方で旗を掲げながら薄く関わっていくしかない、ということを引き続き考えている。