歌集とゴースト

数年前に松村正直『紫のひと』(短歌研究社)を読んだ後にちょっと考えこんでしまったのを思い出した。
いつか夏が終ってしまうと君は言うまだ始まったばかりの夏の

(「みずのめいろ」)

(※カッコ内連作タイトル)

とうもろこしの匂いがすると君が言う肩のあたりに顔をうずめて

「蛸壺のなか」)
引っかかったのは歌集内に散りばめられた相聞の歌について。この相聞の質感が不思議だった。こんな実在感の薄い「君」との相聞を展開するか、とすら思った。
私にはいるはずのない弟が囁きかける夜の跨線橋
(「おとうと」)
まっ白な壁にかかりて手を触れることのかなわぬ紫のひと
(「紫のひと」)
もっとも、『紫のひと』自体がこれまでの松村の歌集と比べると異質ではあった。現在と幼き日が混ざり合っている様な連作「おとうと」や絵の中にいる人との関わりを描く「紫のひと」など現在というものに寄りかかっていない様に見える連作が散見される。先に挙げた様な相聞歌もその気配から生まれたような読後感がある。
君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く
日暮れまで教師をしていた君ゆえに時おり教師の言葉で話す
「靴箱」)
これは松村の第一歌集『駅へ』から引いてきた相聞歌。『紫のひと』の帯に書かれているコピー(「あるはずのない「場所」。いるはずがない「ひと」。)と対極な質感を読むことができる。「君の住む町」も「日暮れまで教師をしていた君」も存在感を疑えない。
夜が更けてより思い出す日によって君のなみだの味異なるを
(「しずくしずくが」)
『紫のひと』の相聞を読む時に先に挙げた様な過去の相聞歌がどうしてもダブるところがあって、その落差で今回の作品は一体なんなんだろうと思ったりした。
「ふだんとは少し違う自分を出せたらと思った。二十年あまり詠んできた歌の延長ではなく、また新鮮な気分で歌に取り組みたいと考えたのである。」と「あとがき」にもある通り、この歌集の雰囲気が意図的なものなのだろう。
先に挙げた帯のコピーの様にあるはずがない、いるはずがないとは断言しないけれど、この感触の場所や人がでてくる相聞を恐らくこれまでのキャリア(先に挙げた歌を含む歌の数々)込みで出してきている。以前の自分の歌と比較されたとしても、本当に一度やりたかったんだろうなと思った。

『紫のひと』のことを思い出したのは、吉川宏志『雪の偶然』を読んだ時の違和感がきっかけだった。
海を埋める土砂を積みたるトラックが白煙吐けりデモ終わるまで
(「キャンプ・シュワブ」)
んー?
読んでいた時に先に挙げた歌たちにちょっと立ち止まった。立ち止まった理由は「あとがき」に書かれていた。
「前歌集の『石蓮花』(二〇一九年)と作歌時期が重なっているところがあり、沖縄や、母の死を詠んだ作は、共通する場面をもとに歌っている。ただ、表現のしかたは違っているので、同じ体験を別の視点から捉えた作品としてお読みいただければ幸いである。」
やっぱり。なんか見たことがあると思ったら、前の歌集で似た状況の歌を見たんや。実際に数えてみたら『石蓮花』では「高江」17首と「海ぶどう」19首と「途中」6首が、『雪の偶然』では「キャンプ・シュワブ」21首がそれぞれ沖縄で見聞きしたものをテーマにしている。
土砂はこぶトラックがくぐりゆくという大き門あり白く鎖ざせり
(「高江」)
こちらが『石蓮花』の沖縄をモチーフにした連作の歌。先に引いた『雪の偶然』の歌が同じ場所でデモをしている最中の歌ならこの歌はその直前に見た歌と読むべきだろう。
反基地の集会の間に配られしアンダーギー砂糖をこぼしつつ食ぶ
ポリタンクつないで水場をつくりおり戦いに慣れている人の手は
このテントもきっと壊される そう言いて電球吊るす作業はじめる
戦死者の足にもねばりついていた泥なのか森の道に踏みゆく
(「高江」)
『石蓮花』の「高江」の沖縄の歌は反基地の活動という戦いの周囲のディテールを入念に描いていることに特徴がある。戦いのディテールがやがて4首目の様に時間を越えてかつてあった戦いに結びつく。
紙のうえに細き数字に書かれつつ海を滅ぼすための予算あり
鉄柵のむこうに日本人立てり雨は体を伝わり落ちて
ざっくりと浜を断ち切る金網がアメリカなのだ掌を押し当てつ
紫陽花はどんな壁にも凭れおり占領のながくながく続きて
(「キャンプ・シュワブ」)
『石蓮花』の連作に無くて、『雪の偶然』の連作で言及されているのは日本ーアメリカの占領関係。こちらの連作は『石蓮花』の連作から少し後ろに下がって占領関係に言及して沖縄を捉えている。更に言うと、「高江」、「海ぶどう」といった『石蓮花』の連作より幾分観念的なものを取り入れて連作をまとめている。確かに別の視点からアプローチしている。
実のところを言うと、『石蓮花』の方が『雪の偶然』より沖縄に割く歌数が多いせいか、その後の『雪の偶然』の「キャンプ・シュワブ」の連作が前の歌集の沖縄の連作のダイジェストっぽく見えてしまうのは正直あった。制作時期が『石蓮花』と『雪の偶然』で被っているからダイジェストで連作を作ったつもりはないと思うけれど、結果的に『雪の偶然』の沖縄詠を読む時に『石蓮花』の沖縄詠の記憶がずっとまとわりついていた。
「あとがき」に垣間見える別の視点から捉えた別の作品だという吉川の拘りは感じるが、読者としてどういう振る舞いをすればいいのか決めかねながら読んでいた。

歌集を重ねていくことは、作者自身だけでなくて読者の頭の片隅にも自分のこれまでの色々なイメージを積み上げることと言える。その場合、そうやってできた読者の頭の中の自分のゴーストは意外と制御できなくてたまに歌集を読んでいる読者を邪魔しにかかる。そんなゴーストのことを嫌いではないけど、出てくる度に困ってしまう。

〈作者プロフィール〉
廣野翔一(ひろの しょういち)
1991年生まれ。大阪府出身。塔短歌会所属。「穀物」、「短歌ホリック」同人。
2022年に『weathercocks』(短歌研究社)刊行。