歌を脅威と思う

他者の短歌を読んで「これは脅威だ」って思ったことってあるだろうか。私はある。

私の話をする前に短歌を読んで脅威だと思うことについて先に話す。人の短歌を読んでそれに近い感情を抱いた人の記録としてダントツで有名なのは石田比呂志が記した穂村弘『シンジケート』評だろう。これは1992年刊行の『現代短歌雁第21号』に「穂村弘論・シンジケート非申込者の弁」というタイトルで掲載されている。

「穂村弘の歌集『シンジケート』に私は何の感興も湧かない。そんなはずはない、同じ人間の作ったものがわからんはずがないと心を奮いたたせるのだが、力めば力むほどチンプンカンプンで歯が立たぬ」

「決定的に穂村の歌に欠けているのは具体的な物質感と生活感であろう。私流にもっと言えば、それらの影に息づいているはずの、自己とは何か、人間とは何か、人生とは何かということへの真摯な問いかけの欠如。もののあわれや無常感を根っこにしたところの死生観ではあるまいか」

「いや、もしかしたら私の歌作りとしての四十年は、この一冊の歌集の出現によって抹殺されるかもしれないという底知れぬ恐怖感に襲われたことを正直に告白しておこう。本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」

この激烈な評は「はだかの〈私〉」という文章で穂村弘本人に引用されて、結果的に穂村の名も石田の名も大きく上げてしまった。引用した穂村の文章が載っている『短歌の友人』などの穂村の歌書はいまだに手に取りやすい短歌の本として流通している。それらの本が流通している限り、この評は歌人たちの、さらに言うと短歌に興味のある読者の記憶に残り続ける。

穂村によるこの紹介の最大の功績(「功績」だと私は思っている。もしかしたら人によっては「罪」かもしれないが)は、或る短歌を、もしくは歌人を脅威だと思う感情をより多くの人の目に触れる場所に残したことにあるのかもしれない。歌をはじめた時に歌会等で読み方を習って歌の読み方を覚えた様に、他人の歌に対する感情を見て自分にもその感情の引き出しができるというのは大いにありえる話だろう。

歌を読んだ後の感情で「脅威」という引き出しができても、引き出しを開けるかは人による。開けないに越したことは無いと思うが、この引き出しを一人のために何度も開けたことが私にはある。その人は佐クマサトシ(会った時の名義は「佐久間慧」だった)。彼が『標準時』(左右社)という歌集を出した。

炭酸が入ってるけど水 前に座った女の子の肩を見る

(「標準時」)

(※カッコ内連作タイトル)

この歌を短歌会の合宿の歌会で見た時に、どうしてこの歌がトップ票だったのかはあまり覚えていない。評を聞いてもその時の自分の腑に落ちる評が無かったことだけ覚えている。でもこの歌のギリギリまで削がれた佇まいは13年経っても覚えている。状況を定めて読むなら、「喫茶店に人といる景のことで~」とかは言える。問題はそんな状況ではなく、景の極端な単純化。状況だけなら風情も感情も入りそうなところを、単純化して歌に連れ込まない。この歌の微かな揺らぎを読むなら「けど」の部分だろう。この会話的な接続助詞が文体をプレーンになりすぎない様に防いでいると見た。

アドレスを交換すべく携帯を近づけている 4秒くらい

(「標準時」)

間もなく彼は「標準時」で2011年の短歌研究新人賞の最終候補になって、彼の作品の一部が『短歌研究』に載った(確か10首だけ載っていた)。上手い、と思った。この歌はおそらくアドレスを赤外線通信で交換していた頃の携帯電話の話をしているが、携帯を近づけている無為の時間を、端的に言っているだけなのに、端的に言うことのつまらなさから逃れていて、結句として動かないと思わせる。

バスタオルきれいにたたむ 空港に住所があるのを認められない

(「標準時」)

しかし彼の歌を読みながら暗澹とした気分になってきた。或る歌を、或る歌人を模倣する試みの集合があらゆるものを発展させてきた。それはまあその通りだが、このまま佐クマの歌が短歌のメインストリームに躍り出て、模倣がたくさん出てきたとして、それが主流になるところに居たくないと思った。俺は自分の短歌が、彼が引き連れてくるものに追いつめられる世界線を信じていた。

結果的に大学を卒業する頃には彼の新作を見る機会は無くなり、彼の明確なフォロワーがたくさん出てくるという事は起こらなかった。

そこから10年近く経った2023年、私は彼の歌集を手にすることになった。

実在の人物・団体・事件とは関係のないことを話した

では25小節目の頭から日付は変わって木曜日です

(「標準時」)

最後までお聞きの方に耳よりの小さな夜の室内楽を

(「接近はするがしかし重ならない」)

いずれも歌のメインが既存の定型文の引用によって構成されている歌を持ってきた。一首目は「実在の人物・団体・事件とは関係ありません」というドラマで見るような定型文に比較的従順な形で歌が作られている。「実在の人物・団体・事件とは関係のないこと」を定義づけている面白さはあるが、それに対して否定せずただ話している。二首目は定型文を場面の転換に使い、三首目は下の句の詩情を増幅させるために、下の句で場面を転換させることを前提に定型文を引用している。いずれも使い方が違うが、ここに技量の高さを感じることができる。

霧雨の向こうに西は見えていてアナログテレビは終了します

(「標準時」)

東京の坂光りつつ十月の自分を動物にたとえると?

(「solution」)

これも定型文の引用がされているが、この歌たちの定型文ではない方の部分は、詩情の気配が濃い。もっと言うと、定型文の部分に別の短歌的な下の句を付けて、詩情に従順な短歌を作ることも可能と思わせる。だが、佐クマが付けた下の句はその可能性から逃げていく。

案内を見ればだいたい分かるのでいま着信があった気がする

(「標準時」)

そういう考え方もあると思うし否定はしないけど葱も買う

(「風も吹く」)

転換する発想だけでなく、転換させるタイミングについても様々にある。「案内を~」の歌の様に三句目という真っ当なタイミングの時もあれば、「そういう~」の歌の様に結句に入ったタイミングで仕掛けることもある。どこで仕掛けてくるかわからない。

外に出ると随分寒くなっていて、いや初めてじゃないはずなのに

(「solution」)

歌集で読んだ時に妙に気になった一首。寒さへの動揺が抑制されてはいるが、それを確かに感じ取れたという意味でこの歌がこの歌集の中にあるのは異質な様に思えた。更に言うとちょっと微笑ましい歌の様にも見えて面白い。

この歌集を読みながら、彼の歌を「脅威」と思う感情はさほど出てこなかった。思うところが無くはない。歌集を読んでずっと他人が他人事の様に何かしらを話すのを聞いている心地がしたが、その他人事の様な話し方に相当な工夫を感じたからこそ、彼の一首一首に言及したくなった。もっとも、彼が歌から削いだものを私は歌から削がないという自負も未だにあるがそれはそれだ。今は彼が今後歌をどの方向に動かしていくのかが気になって仕方がない。

〈作者プロフィール〉
廣野翔一(ひろの しょういち)
1991年生まれ。大阪府出身。塔短歌会所属。「穀物」、「短歌ホリック」同人。
2022年に『weathercocks』(短歌研究社)刊行。