『オールアラウンドユー』について

木下龍也の表舞台での活躍はもう言う必要もないだろう。「情熱大陸」への出演等、表舞台で短歌が話題になっている時だいたい中心に居たのは木下龍也だった。

その木下の第三歌集『オールアラウンドユー』(ナナロク社)をどう見るかについて、書いた方がいい気がしてきた。

まず、この歌集の良し悪しは置いといて、これまでの木下への印象が変わる一冊であった。

きみが飛ぶ夢を見るからあの鳥が飛べない夢を見る熱帯夜(P46)
おさらいのようにあなたを撫でながらまずは手汗についてあやまる(P70)
「きみ」に「あなた」…二人称をさす言葉が歌集に出てくるのだけれど、木下さんこんな前面に「きみ」や「あなた」を出す人やったかなというのはやはり気になった。ちょっと気になったので、前に出た歌集を含めて二人称が出てくる歌を数えてみた。(今回の対象は第一歌集の『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房)、第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房)、今回取り上げている第三歌集の『オールアラウンドユー』に絞った。)
第一歌集『つむじ風、ここにあります』
→250首中23首(約9.2%)
第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』
→145首中16首(約11%)
第三歌集の『オールアラウンドユー』
→123首中28首(約22.7%)
上記のデータからもわかる通り、この第三歌集ではこれまでの2倍近く二人称が出てくる歌がある。明らかに第二歌集までの歌集2冊と今回の歌集で傾向が違う。
くちづけのあとも敬語を続ければあなたの森で迷わずに済む(P48)
神さまを殺してぼくの神さまにどうかあなたがなってください(P36)
あなたと呼ぶ存在への距離感は歌によって急激に変わる。この二首の様に遠ざかり近づいたりを何度も繰り返して行く。
花を捨てあらたな花を挿すときも花瓶はぼくを責めてくれない(P66)
「あとがき」に自宅で一輪挿しを活けるようになってから花のモチーフが多くなったことをみずから言及している。
あなたや花がでてくる歌が暗に示す様に、モチーフや発想をこれまでの2歌集と比べるとかなり絞ってきている印象がある。そういう意味では次の歌はこれまで(これから)の木下龍也を遠回りに示していると感じた。
空席がすばやく埋まる東京でだれが消えたか思い出せない(P38)
だれが消えたか思い出せない、か。穿った見方も入るかもしれないが、木下の歌集に入っている歌は奇想的な歌もあるが、その一方で街にある消えそうなものへの視点が目立つ歌が多い印象を持っていた。
活字では登場しないぼくたちはどんなにあがいてもエキストラ『つむじ風、ここにあります』
僕用の墓だと思う地下駐車場に車を眠らせるとき『きみを嫌いな奴はクズだよ』
消えそうなものを消えそうに見えるのは自身の境涯や気分が重なるからというのはあるだろう。その気配がこの歌集では薄い。「あなた」を軸とした身巡りから極端にはみ出さないようにしている。
孤独について「あとがき」にて木下はこう述べている。
「一首をつくるとき僕は、身体がどこにあっても、ひとりだ。二〇一一年に短歌をつくり初めてから、それはずっと変わらない。けれどいまの僕は、あのころと同じ性質のひとりではない。短歌を通して、歌集を通して関わってきた方々が、遠い灯りとして、近い体温として僕のなかに存在している。だからもう、あのころのように孤独ではない。一首という僕だけの一室さえあれば、その外にあるままならない暮らしを、どうしようもない世界を、あきらめずに生きていける。」
孤独への折り合いをひとつ付けた、ということだろうか。あなたとの関係から、人との関わりから優しい諾う様な抒情を得た歌集と言っていいかもしれない。
カマキリにPASMOを当ててうつくしいカマの閲覧料を支払う『オールアラウンドユー』(P95)
変な歌なのだけれどうつくしいと思った。歌集の軸になっている「あなた」などに呼びかける様な歌が強くて、他の歌にその気分が移るみたいなことは恐らく起きていて、これはその最たる例かもしれない。他の歌集に入っていたら見え方は違うだろう。溢れかえった佐藤と対峙する人も、僕を嫌いな奴はクズだよって言うキリストもいない歌集で見る、このカマキリは素直に美しい。
自転車に空気を入れる精密な自分の影に涙しながら『つむじ風、ここにあります』
ひとりならこんなに孤独ではないよ水槽で水道水を飼う『きみを嫌いな奴はクズだよ』
だが、孤独感からの描写や奇想から垣間見える小市民的な感覚が目立つ他の歌集からすると、この『オールアラウンドユー』の方向性は意外だろう。
木下の今回の歌集は作風的にもしかしたら転換点なのだろうが、これまでの蓄積をまあまあ捨てた大勝負にも思える。ここから彼は歌をどう作っていくのだろう。