歌集副読本は楽しいけれど

人の感情ってだいたい揺れ動くんやけれど、それって歌集・歌書を読んでいる時も同じで、その振れを鎮めたりして、こうして批評を書き続けている。

最近の本では『『老人ホームで死ぬほどモテたい』と『水上バス浅草行き』を読む』(ナナロク社)は告知の時から感情がかなり振れた。2冊の歌集の副読本と題されたこの本に歌集の副読本だあ!?って驚いて、でもこれは発明かもしれへんって謎に納得するみたいなことをずっと繰り返していた。

外枠について先に述べておく。『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)は上坂あゆ美の第一歌集で、『水上バス浅草行き』(ナナロク社)の岡本真帆の第一歌集である。短歌を多少齧っている方なら、この2つの歌集が去年から今年にかけてどれだけぶいぶい言わせていたかはご存知かと思う。そこについては割愛する。

この本では変なことが起きていて、版元の違う2冊の第一歌集の批評を1冊の本で展開している。パッと見た時に何故?とは思うかもしれないけれど、ある程度ふたりの活動を追っているとわかりすぎる。2021年からclubhouse等の音声SNSで「生きるための短歌部屋」と題してラジオ形式で歌とそれに対する互いの読みを披露し、更に歌集刊行後も各地でイベントをしていた2人にとって、この副読本はその延長線上にあり、内容も上坂が『水上バス浅草行き』を、岡本が『老人ホームで死ぬほどモテたい』をそれぞれ読み進めていくという形で進んでいく。

読み方についてはそれぞれ違う軌跡を辿っていく。それは二人がそれぞれ最初に宣言している。

「正直に言うと、歌集を読むとき、著者のプロファイリングをする気持ちで読んでいる。わざわざこの景(作者が感じ取った風景)を切り取るということは、とか、ここでこの言葉選びをするということは、みたいなことから、著者の生き様や魂のかたちを想像するのが、私なりの歌集の味わい方だ。」

上坂の『水上バス浅草行き』の読み方は上記の通りで、岡本の『老人ホームで死ぬほどモテたい』の読み方は対極の様にもう少しシンプルで、こう記されている。

「これから私が行うのは一首評だ。短歌一首一首を取り上げ、どのように楽しめるかを言葉にしながら、上坂あゆ美が歌集を通して表現しようとしている世界を読み解いていく。」

上坂の歌の読みはどこかテンションが高い。ちょっとだけ抜粋する。

「いい歌には加害性があると思う。その歌と読む前と読んだあとで、読み手の世界を変えてしまうものだからだ。(中略)しかし、岡本真帆の歌は、加害というにはあまりにあたたかい。こういうタイプの加害性があるのかと驚く。それは「北風と太陽」の太陽みたいに、ぽかぽかと心地よく、私たちは気づいたら服を脱いでしまう。

そして、太陽とは、優しく穏やかな日だまりをもたらすと同時に圧倒的な力を持つ、たくさんの星の支配者である。

思い切りダブルロールを抱きしめて私の夜を私が歩く

十二個くらい入っているティッシュペーパーを持ち帰るとき、抱きしめるような形で歩くことがある。単にティッシュペーパーを買って家に帰るというだけの景だが、夜や帰り道そのものを自分が支配しているようで強く明るい。(中略)

天国と書かれた紙を引き当てて迷うことなくきみにあげたい

もうきみに伝えることが残ってない いますぐここで虹を出したい

もし本当に天国に行けるかどうかがくじ引きで決まるのであれば、絶対に天国と書かれた紙を引き当てそうだし、「きみ」のためなら虹も本当に出せそうな雰囲気がある。岡本さん本人も太陽のような人で、その強さとあたたかさが、この歌にも滲みでている。」

上坂は、先述の宣言のすぐ後に「スピッツ事件」(岡本に好きな音楽を聞いたら「スピッツ!!!!!!!!」と即答して、メジャーオブメジャーなアーティストを即答できるまっすぐさに動揺した出来事)を紹介しているが、ずっと『水上バス浅草行き』から見える岡本のパーソナリティに対して動揺しなおしている様に思える。

一方の岡本の『老人ホームで死ぬほどモテたい』の読み方は歌集や連作の構成に言及しつつ、丁寧に一首評を続けていく。これもちょっと抜粋する。

「撫でながら母の寝息をたしかめる ひかりは沼津に止まってくれない

葬儀を終えた母親が眠っている。

「撫でながら」の対象は母親本人かもしれないし、飼っている動物だったり、別の誰かだったりするかもしれない。この歌だけでは撫でている対象が何かを断定できないが、「撫でながら」「寝息をたしかめる」という行為には、母親を慈しむ気持ちがにじんでいる。

「ひかり」は新幹線のこと。自分たちの眠る、夜の沼津を通過して、輝く「ひかり」はどんどん遠くへ行ってしまう。停車しない「ひかり」に沼津から乗ることは叶わない。

まるで沼津という地が「わたしを」呪いのようにこの場に縛り付けているように思える。「止まってくれない」の「くれない」の部分からは、主体の願いに反して遠ざかる新幹線への恨めしい気持ちがあふれ出しそうになっている。」

岡本の方は先述の宣言の後に、仲の良さと関係なく、一人の読み手として上坂の歌を通して感じたことを言葉にしていくと書いている。上記の評を読むとなるほどと思う。岡本は歌集の歌を読むときに上坂の実際のパーソナリティに触れていない。「おわりに」でちょっと触れるだけだ。実際の人柄を飛び道具の様に読みで使う上坂と対になっている。(これはどっちの読みの方がいいという話ではないというのは一応言っておく。)

この本のどこに私の感情が振れるかというと、こういう文言に多少ひっかかるからだ。

「普段短歌にあまり親しみのない方もこの本を手に取ってくださっているかもしれないから、私の読み方はとても偏ったものであることをお伝えしておきたい。あなたは自由に『水上バス浅草行き』を読んでいただき、ここからは一人の酔狂なファン(私)の感想を楽しんでもらえればと思う。」

「これから書くことは短歌の読解の正解ではない。読み手の数だけ存在する解釈の中の一つとして、楽しんでいただけたら嬉しい。」

上は上坂の文言で、下は岡本が書いた文言である。えー、真っ当なこと言うてるやんと思われる方も居るだろうが、でも、と思ってしまう。

もう一度言っておくが、この副読本と題された本は発明だと思うのは間違いない。人と会う機会が減少してしまったこの時代に、会う機会の減少と比例して減ってしまった歌や歌集の読みを版元が自ら副読本という形で補完しようとするのは大変面白い試みと言って差し支えないだろう。

でもこの本って俗な言い方をすると運営側が出している本である。対象の歌集の作者が互いの歌集を読んでいるけれど、二人がこれまで先述の通り「生きるための短歌部屋」等で読みの場を重ねてきたことを含めてしまうと、それってもう極めて正解に近いものだと思うのだ。正解に極めて近いものの中で「正解ではない」ということで齟齬が出ていることに対して私の感情は落ちてしまう(一応言っておくと、これは批評者の責に帰すべき話ではないだろうと思っている。)これがこの副読本に対して私の感情が振れる一番の原因なのだろう。正解との距離感に重きを置くなら違う人選はあったと思う。

ここまで述べて感情はまだ振れている。今でも感情が振れてしまうのはこの2人による歌集の副読本だからこそ、この本を手に取る人がたくさん居て、ここから歌集の読みを学んでいく人はまたたくさん居ることがわかるからだ。彼らは歌や歌集の読みに関してより快適な近道を一つ得ることになる。そのことを認めつつまだ感情の折り合いが付いていない。

〈作者プロフィール〉
廣野翔一(ひろの しょういち)
1991年生まれ。大阪府出身。塔短歌会所属。「穀物」、「短歌ホリック」同人。
2022年に『weathercocks』(短歌研究社)刊行。