「推し」という補助線

 これまでの自分に「推し」が居たことってあったっけと思う。自分の生活に中心に据えて、「推し」を追いかける様な日々をおそらく送ったことが無い。漫画・アニメにしても、実家では制限かかっていたのもあって、ハマったコンテンツが相当少ない。結果的に短歌バカ一代とでも言うべき生活を20代はずっとすることになった。後で登場する榊原紘に「廣野さん、最近ハマっていることありますか?」って言われて、本当に思いつかなくて「…短歌かな」って言ったことがある。もうちょい他なんか無かったんか。

冒頭で自分の乏しい「推し」の話を引っ張ってきたのは、今回は「推し」の話をするからだ。「推し」が無視できないタイプの短歌の補助線のひとつにいよいよなってきている。

「推し」という用語自体はそもそも昔からあって、一説によると1980年代から既にあったとも言われているが、人口に膾炙しはじめたのはもう少し後。AKB48が選抜総選挙を派手にやりはじめた頃、言い変えればゼロ年代の終わり頃からだ。2011年には流行語大賞にノミネートされている。

「推し」もしくは「推す」ことについて詳しくどう捉えるかについての本はいくつかあって、この後に紹介している『推し短歌入門』にブックガイドがあるが、それに載っていない本をたまたま読んだ時に「推す」ことに関する記述があった。石川善樹・吉田尚記『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました』(KADOKAWA)というウェルビーイングがテーマになっている本である。該当部分を要約する。

 ウェルビーイングは自分が良い状態にあることを指す概念だが、そもそもbeing=「いる」ということである。子どもが友達を作る時、最初に学校や公園でただ一緒に「いる」時間があって、そこから友達に「なる」、そして一緒に部活に入る、バンドを組むなどの何かを「する」時間の段階を踏む。

 ところが大人になると仕事が起点になることが多く、「する」が出発点になる。何がどのくらいできるかということがシビアに見られる場所において、ただ「いる」だけでは価値は減ってしまう。だからこそ、人間は大人になるほどただ「いる」が許される場、「いる」だけで価値があるような存在を切実に求める。 「いる」から始まった関係性やチームは、「する」よりも、「いる」が優先されることが許されるため「する」が上手でなくてもいい寛容さがある。アイドルを「推す」気持ちもこれに近い。「なる」も「する」も相手に求めない。ただ、いてほしい。「推す」という行為は突き詰めると、「一方的に愛させてくれるのがありがたい」という心理で、これに最も近い心の動きは「信仰」だろう。行為に関係なく、存在してくれるだけでありがたいし、その熱によって「自分はここにいるのだ」という生の実感を得ることができる。「推す」というあり方は今の時代に最適化されたウェルビーイングのひとつのかたちである、と考えることができる。

本の主題ではないから「推す」ことのすべては書かれていないが、少なくとも「推す」ことに関するひとつの側面がちゃんと記述されている本だと思った。

ここで話を飛ばして、短歌研究社が2021年から実施している「アイドル歌会」に最近出入りしているという話をする。笹公人、俵万智を選者役にしてアイドルに短歌を詠んでもらうイベントを実はよく見ている。2年近くやってきて、人気のイベントとして貫禄が付いてきた感じすらある。

11月2日配信分「アイドル歌会@紅葉狩りスペシャル」より、題「配信」

十秒だけ目をつぶったら夢の中 寝息を配信したことがある/齋藤有紗

画面越し推しのあなたに投げる星 一番星の生まれ変わりよ/reina

皆という言葉を千切ったそのひとつあなたに向けて届け配信/宮田愛萌

ながら見で申し訳ない残業中せめてスマホの画面を拭う/寺嶋由芙

 アイドル側から提出された歌の一部を紹介したが、このイベントの構成はアイドルが出す歌を詠む歌会と、付句コーナーの二部構成である。付け句コーナーはアイドルが出す上句or下句に観客がもう片方を考えてTwitterに載せる(ハッシュタグを付けることにより舞台上のアイドル・選者も拾える)。

このイベントで重要なのは、歌会の場合、歌の技巧的な上手さというより歌に見えてくる生活や感情のディテールで、付け句の場合は付け句を出した側とのコミュニケーションが成立するかだと思う。先に要約した本の言葉を借りて言うなら、ファンはアイドルがどんな心持ちで日々の中に「いる」かを歌を通して見つける。付け句の時は付け句を作りタイムラインに載せることにより、ここに「いる」のを見つけてもらう。ここで「いる」ことを互いに認め合うことにより、互いの信仰めいた関係を深めていく。信仰はファン→アイドルだけの一方通行ではない、アイドルだって基本的には応援してくれるファンには居て欲しい。そういう意味では両方に信仰は成立する。

で、信仰って結局理性より圧倒的に感情が勝つ状態、ある種の愚かさを多分に含んでいる。ただその愚かさの熱は、見る人を惹きつける可能性を大いに秘めている。

 最近出た榊原紘『推し短歌入門』(左右社)に名著の予感を感じた決め手はそこなんだろうなと思う。正直言うと、短歌の技法面等の解説もよく出来ているし、要点を章ごとに記載して、それをゲームのセーブポイントに例える構成の工夫も面白い。「推しへの気持ちをフックに短歌を作ってみよう」という補助線がこの本には引かれているが、その補助線を忘れてしまうくらいだった。

 でも、この本を名著たらしめているのは、そういったテクニカルな部分だけではなく、帯の「オタクは必ず短歌がうまくなります。必ずです。私が保証します。」からはじまり、合間合間に榊原が見てきた漫画・アニメを引用してそれを熱っぽく語る部分が要所要所に挟まれるからだろう。教える側も教えられる側も推しという愚かさの熱を帯びている。その熱が持つ可能性に私は期待してやまない。