表現の隣人-俳句と短歌

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  短歌俳句、あるいは俳句短歌とひとくくりに言われるのがふつうだけれど、外山滋比古が言うとおり「同じ短詩型文学でありながら、どうして、こうも違うかと感心するばかりである」(*1)。外山の言葉に頷くかどうかは、一四音の差を僅かと見るか、決定的と見るかで変わってくるだろう。

 
 外山の俳句論を私なりに解釈するなら、表現という営みのうちに「断念」という契機を織りこんでいるかどうか、あるいは断念という契機をつうじて逆説的に表現の完成に到ることができると信じられるかどうかこそ、俳句をその余の詩型から隔てる決定的なポイントということになる。

 

 これは短歌にも、少なからずあてはまる。定型に身を添わせるということは、一方で定型の求めるように〈私〉と表現を削りこんでゆく過程を伴う。これが、断念だ。だが、そのような作業をつうじて〈私〉の深層を探りあてたり、身めぐりのディテールに気づいたり、あるいは当初は思いも寄らなかったようなレトリックが生まれたりするなら、やはり嬉しい。それは断念を補ってあまりある、あるいはそれこそは克ちとられるべき表現であったと、そう思えるから私は定型詩を表現の手段として選択する。それでも深層の〈私〉や修辞の発見を望んでいるぶん、ひょっとすると私は俳句から遠ざけられているのかもしれない、とも思う。

 
 俳句の極小とも思える短さは、断念を転回点とする表現の逆説をほとんど限界的に純粋なかたちで了解させてくれる。ある一点を禁欲することで、これほど言葉は天衣無縫になれるのかと驚かされることもしばしばだ。

 

ところで、俳句には疎い私であるが、歌ができないとき、最近はよく俳句のアンソロジーを読む。以前は好きな歌人の歌集をひらいたものだったが、短歌からインスピレーションを得ようとすると、どうも即(つ)きすぎになって充分な飛躍ができないところがある。その点、俳句の短さというか禁欲性は、発想の火種を火種のまま投げかけてくれる感触があって、ちょうど具合がよいのである。(*2)

 

 栗木京子の「俳句と短歌のあいだには」から。これを読んだとき、我が意を得たりと膝を打ったものだ。私も、作歌に詰まるとよく歳時記をめくる。言葉を拾うのも、目的の一つである。「拾う」というといかにも便宜的で、誤解を招くかもしれない。正確に言えば、言葉を思い出すことで、内なる記憶が呼びさまされ、外界への感覚が新鮮になる。それを期待しながら、歳時記の目次を流し読みする。

 
 それだけではない。歌を作っていると、たった一つの発想に嵌りこんで、言葉をどう動かしてもいっこうに変わり映えしない、そういうことがよくある。そんなとき、隣の芝生を垣根ごしに覗いてみたくなる。奔放な飛躍、事物に語らせることへの信頼、予想を裏切る配合、あるいは栗木の言う「火種」。何にしろ、俳句が断念と引き換えに手に入れた自由さに触れているうちに、袋小路に陥ったじぶんの背なかがよく見えて、すみやかに一から出直す気もちになる。こんな身勝手な歌人の告白を俳人が読んだなら、なんと不純なと怒りだすだろうか。それとも笑って見のがしてくれるだろうか。

 
 隣の芝生をちらっと覗いて自室に戻る歌人は、案外多いのかもしれない。最近では柚木圭也の歌集に、「火種」の熱さを感じさせる作品があった。

 

  自転車で走り抜けるとき春泥はあるやさしさをもて捉ふるしばし

柚木圭也『心音(ノイズ)』(*3)

 

 歌集に添えられた「栞」で横山未来子が指摘するとおり、柚木作品には時折俳句の季語が散見される。ここでは「春泥」がそうだろう。漢語は俳句の簡潔な表現に似つかわしい。一方でこの言葉には弾むような響きがある。「春泥」の季感にはいろいろな解釈があるようだが、ここでは柔らかな土の感触をつうじて早春を体感するささやかな喜びが詠われている。サドルごしに伝わる間接的な感覚が繊細だ。

 

 

 
(*1)外山滋比古『俳句的』みすず書房、一九九八年。
(*2)栗木京子『名歌集探訪-時代を啓く一冊』ながらみ書房、二〇〇七年。
(*3)本阿弥書店、二〇〇八年。