島田 幸典


意味・形象・音声―新国誠一からの連想

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 昨秋、京阪電車中之島線が開業した。国立国際美術館は、この新線のおかげで身近になった「島」の施設のひとつである。二週間まえに知りあった松井茂さん(詩人)が公開座談会に登壇されるというので、その日を選んで「新国誠一の《具体詩》」を見にいった。

 新国は、本邦におけるコンクリート・ポエトリーの草分けである、と常套句に倣ってみたものの、私はその業績について要領よく紹介する術を知らない。新国の詩については『現代詩手帖』の特集(二〇〇九年二月号)に譲るとして、面白かったのは松井はじめ、佐々木敦・川崎弘二・大谷能生といった気鋭の批評家によるディスカッションだった。

 彼らが異口同音に言及したのはコトバのもつ多層的な性格である。コトバは複合的なメディアであり、意味のみならず〈聞こえ〉や〈見え〉の要素をも伴う。聴覚的側面の重要性は「しらべ」を重視する歌人なら、だれしも認めるところだろう。表記、すなわち視覚的側面にかんしては、日本語は西欧語以上に複雑な構造をもつ。佐々木が指摘するとおり、仮名か漢字か、後者としてどの漢字を用いるかによって、さらなる差異化の余地が生じるからである(*1)。以前「短歌のなかの漢字」で挙げた大辻や阿木津の作品は、コトバの〈見え〉への配慮が奏功した事例だ。

 新国もまた形象や音声のもつポテンシャルに賭けた詩人である。「雨」(一九六六年)という作品は、この文字に雨粒のかたち(丶)が見えたとき成立した。もっとも、この詩のなかでは(そしておそらくは新国のほかの詩にしても)意味はけっして捨象されていない。むしろ視覚的要素を掘りさげることで意味の再生に成功した作品、と言ったほうが正しいのではないか(*2)。

 戦後短歌は、コトバにおける〈意味〉の要素が偏重された時代の所産である。それは明晰な社会意識に根ざした、倫理的な生のあり方を問うことに詩型の未来を託した。むろん、これは相対的評価であって、視覚や聴覚の要素が重要性を完全に喪失してしまったわけではない。が、その可能性が十全に再認識されるためには、短歌における修辞学の復権が必要であった。ニューウェイヴによる様々な試行は、そのような文脈のなかで評価されるべきだろう。
 

言葉そのものの質感に光をあてることによって、作品に過剰な、あるいは過小な評価を与えてきた〈意味〉、とりわけ正義や倫理から詩歌を救出したいのである。

 

 加藤治郎「現代短歌のアーキテクチャー」は、上記のような挑発的なマニフェストから書きおこされている(*3)。ここで加藤は「あるまとまった音韻と表記の複合体としての言葉の質感」を〈言葉の感触〉と定義し、これを「意味や言葉が生成する視覚像には非関与的」なものとして位置づける。言葉の価値は〈意味〉それのみによって担保されているわけではない。加藤によれば、〈言葉の感触〉の転換もまた価値を生成する契機となる。一首のなかの呪文めいたオノマトペや外国語、文語体に挿入される口語的フレーズは、聴覚的な側面において感触の転換を感じさせる要素である。

 質感の変化は視覚面でも生じうる。

 

     鬯鬯鬯鬯と不思議なものを街路にて感じつづけてゐる春である

荻原裕幸『あるまじろん』(*4)

 

 この一首を感受するために「鬯」の字音や字義について知る必要はない。それどころか、ひとめ見て容易に読んだり意味を摑んだりできないからこそ「鬯」の形象性は純粋なかたちで剝きだしになる。加藤の解釈によれば、それは「何やら奇妙な視覚的要素」なのであり、「ちょっと狂気めいた感触をもった春の危ない青年の感慨」が詠われていることさえ伝われば十分である、ということになる(*5)。このとき「鬯」は、その意味とは別のところで、主体の心理を伝達する「表記的喩」(加藤)として機能している。

 「記号短歌」と称された一連の試行の重要性は、ただ単にそれまでの短歌に見られなかった「メタ・キャラクター」を用いた点にあるのではない。それは、言葉の属性を一から洗いなおすことで、個々の要素のもつ修辞的可能性を短歌定型に即して明るみにした。加藤の「にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった(*6)」は、実験段階を離れたところで克ちとられた成果である。形象・音声の潜在力を活かすことで、意味の伝達力を増幅させている。その意味で言葉の諸属性に、然るべき調和を回復させた作品なのである。(*7)

 

 

(*1)「新国誠一のグラム・0・フォン」『現代詩手帖』二〇〇九年二月号。さらに日本語では読点をどう打つかも、表記の差異化に関与する。

(*2)建畠晢も、新国の具体詩が「漢字という特権的な文化圏」を背負っている点に注目してこう述べる。「たとえば『雨』にしても、解体していってもその字素において、ある種の類推性を持つというアナロジーを有しているところに彼はこだわっている。」座談会「いま、新国誠一―形象と意味のはざまで」、同上。

(*3)加藤治郎『TKO―現代短歌の試み』五柳書院、一九九五年。

(*4)沖積舎、一九九二年。

(*5)加藤『短歌レトリック入門―修辞の旅人』風媒社、二〇〇五年。

(*6)加藤『ハレアカラ』砂子屋書房、一九九四年。

(*7)ところで、なぜここで私が加藤の「!」(「ハルオ3」『マイ・ロマンサー』雁書館、一九九一年)や荻原の「▼」(「日本空爆 1991」『あるまじろん』)を用いた作品―所謂「記号短歌」の代表作―を引かないのか、いぶかしく思う読者がいるかもしれない。いずれも横書きで記すと、原作が意図した「表記的喩」の機能のいくばくかを損ねるおそれがある、という判断がここで引用を躊躇わせた。一連の試行が突きつける問題性については、あらためて考察したい。