問いとしての写生―百穂と子規

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 京都では毎年三度に亘って、大規模な古本市が催される。夏の盛りの下鴨神社、晩秋の百万遍では、野外にしつらえられたテントのしたで外気を肌に感じながら本を探す。黄金週間は岡崎の見本市会場。広大なホールを五〇万冊もの古書が所狭しと埋めつくす。今年も二日で十五冊購入した。三万分の一の確率。本と人と、どちらの出会いが奇跡に似ているだろうか。

 
 平福百穂の『竹窓小話』は、そこで見つけた一冊である(*1)。百穂(一八七七~一九三三)は日本画家。アララギ古参の歌人でもあり、本書に収録された文章の多くも元々同誌に発表されたものである。そのなかにこんな文を見つけた。

 

東洋の画面が正方形でなくて、著しく長幅であつたり横巻であつたりするのは、それだけの理由がある。東洋の山水画はその中に住み、且つ観る心持で画く様にといふことは、既に宋代から注意されてゐる。自然を遊観する心持で山水画を描くことになると、西洋の風景画の様に、一画面一視点のものとならずに、その視点は画面の中を、道に沿ひ、或は川に沿つて動き行く筈である。視点がかくの如く動いて、自然を遊観するならば、画面は上下に長くなるか、左右に長くなるかするであらう。然るに一画面一視点の態度で自然の中から画面を切り取ると、正方形になるのである。(*2)

 

 右の一節は大正末年あたりから展覧会に出展される日本画の大部分が、正方形あるいはそれに近い横長の長方形をとるようになったことへの論評のなかに現れる。日本は近代化をまずもって西欧化として経験したが、伝統画もまたその趨勢を免れなかった。それは本質的には視点を一点に定める透視画法の採用として現れ、副作用として視野に入らない部分が画幅から排除された。百穂曰く、画幅の正方形化は「画面が著しく写生的になつたこと」の必然的帰結なのであった。そして日本画は近代化の代償として、動く視点―絵巻や屏風に現れるような―を喪ったというわけである。

 
 この叙述が興味を引いたのは、最近読んだ大辻隆弘の子規論の印象が鮮明だったからかもしれない(*3)。大辻によれば、子規は写生短歌の創始者でありながら、同時にその限界を最初に見極めた人でもあった。写生によって「一首のなかで叙述された情景は、固定的な視点から見られた視覚像という意味を担わされ」た。それとともに視覚的描写とは無関係な、そればかりかその妨げともなりかねない「てにをは」や主観的な感情語は排除すべき言葉となった。この点で短歌革新は、俳句革新とまったく同じプログラムに則って遂行されたのであり、名詞本位の文体の確立が高らかに提唱されたのである(*4)。

 
 百穂の文章が目に留まったのは、なんだ日本画も同じじゃないかと思ったからである。子規が和歌から助辞を追放したのは、日本画において画幅の余白が削りとられたのとパラレルな現象であった。いずれも写生という普遍的理念の受容の結果、在来の伝統的表現が強いられた共通の変化にほかならない。

 
 ところが転機はすぐに訪れた。大辻の議論に戻ると、子規は古典和歌を読みなおし、短歌形式の独自性にかんする認識を深めることでみずから革新〈以後〉の課題を発見する。その独自性とは「短歌は時間の描写に適した詩型である」という点にあった。

 

  箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ

                                源 実朝

 

 そこでは回想された時間と現在の時間が、「ば」という助詞によってなめらかに接続されている。助辞を活かすことで短歌は、主体の「心理的な時間の流れ」を描きとめることができる。この点に豁然と気づいたからこそ子規は、「和歌の俳句化」という当初の構想から離れ、むしろ助辞が織りなす豊かな調べのなかに時間意識を投影させる方向へと向かった。「いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ」(一九〇一年)という作品は、現在と来ることのない未来を繋ぎながら、そこに諦念を深く沈めた点で子規晩年の達成である―これが、大辻の論旨である。

 
 絵画にせよ短歌にせよ、写生理念は一点透視画法的な認識スタイルへの習熟を促した。それは視覚描写に新たな地平を切りひらいたが、他方で既存表現の少なからぬ構成要素が顧みられなくなった。

 

 しかし、子規も百穂も写生理念に拠りながらそれを物神化することなく、それでは掬いとれない側面から表現の問題を捉えていた。絵画・短歌それぞれの伝統にたいする理解と固有の特性についての認識が彼らの考察を鋭敏なものとし、あるいは表現のさらなる前進を導いた。写生とは確立された方法というよりは、問いとして立ちあらわれることで表現者の様々な試行を促したのである。

 

 
(*1)古今書院、一九三五年。
(*2)「正方形の画」(引用に際して、漢字は新字体に改めた)。
(*3)「写生を超えて」『アララギの脊梁』青磁社、二〇〇九年。
(*4)この問題は『子規への溯行』に収められた大辻の評論「私というパラダイム」においてすでに詳細に論じられている。砂子屋書房、一九九六年。