音楽史から見た短歌史

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作曲システムが堅牢だった十八世紀までの作曲家は、「いい曲」を書くことに専念すればよかった。十九世紀の作曲家は、システムを崩しながら、「オリジナルな曲」を書こうとした。だが二十世紀の作曲家は、曲を書く前にまず、音言語システムを構築しなければならない。(*1)。

 音楽史家・岡田暁生による評論の一節から。時間の尺度にこそ違いはあるが、短歌史と何となく似てはいないだろうか。岡田によれば、かつて作曲とは「型の踏襲」であった。これにたいしてロマン派が打ちだしたのが「独創美学」。とはいえ、その作品も型からの部分的な逸脱や破壊によって独創性や個性を認められたのであり、その意味で型の存在を前提としていた。そうなるとロマン派のみならず、西洋音楽の伝統全体にとって決定的な危機をもたらしたのは、シェーンベルクその他による音楽的定型の徹底的排除ということになる。だが、ここにはディレンマがある。「規則をなくしてしまったら、独創をそれとして理解することもまた、おぼつかなくなるのである(岡田)」。同じ雑誌に掲載された音楽評論家・片山杜秀の言葉を使えば、音がかたちを喪ったら、どのように展開されたとしても「ずっとただの無秩序状態の継続であるようにしか感じられない(*2)」。かくしてシェーンベルクは音楽的人工言語である十二音技法を創りだすことでこの困難を乗り越えようとし、また多数の現代音楽家がこれに倣って独自の文法を構築した。だが、それぞれのルールが所詮作曲家個人のものでしかないかぎり、どの言語も定着することはない。そこに「共通の大土俵」(片山)があるとしても、あまりにも広大にすぎて、個別作品とジャンル全体の関係を見通すことはほとんど不可能になる―。

 
 岡田と片山の論旨をまとめれば、右のようになるだろうか。古典から近代に受けつがれた(大)カノンが解体され、無数の(小)カノンが散在する一方、それらを繋ぐ架け橋を見出しがたい音楽的ポストモダン情況が垣間見える。短歌も同じだ、と即断するつもりはない。が、私は短歌以外の芸術ジャンルの話を聴くときには、その領域固有の文脈に注意しながら論理を追うよう努めはするけれども、頭の片隅で短歌のことを思いかえし、それと引きくらべることを禁じえない。これらの文章を読みながら私が感じたのは、次のようなありきたりな感想である。短歌の「土俵」は近代百年で飛躍的に拡張し、その傾向は現在なお已むことを知らないものの、音楽に比べれば見通しはきかなくなるほどには到ってない。

 
 短歌における型は、単に三十一音の音数律それのみを指したわけではない。修辞技法、調べ、用語、世界観とは言わないまでも言葉が蓄えてきた重層的な情感、その他諸々の集積から蒸留された規則の体系が古典和歌のなかには息づいていた。明治三〇年代以来の短歌革新はそれを破壊し、歌の姿を一変させた。だが、同時に近代短歌は過去から幾ばくかを部分的に摂取し―前回触れた子規による〈時間〉の(再)発見はその一例だ―、またアララギ的万葉学がそうであったように、創造的再解釈をつうじて近代に適応させた。かくして近代歌人は〈主体〉や〈社会〉といった近代固有の課題を担うべく、古典のエキスを首尾よく継承した。

 

 さて、短歌的ポストモダンである。今や短歌綜合誌を開けば、様々な場面で既存のモードの解体や表現の多様化、「島宇宙」の点在や架け橋の不在について語られている。その点では音楽と類似の問題に直面しているようにも見える。だが「土俵」の拡大、つまりジャンルの拡散へと向かう傾向がある一方で、この遠心運動を制動するメカニズムがこの詩型には備わっている。何より文学は言語表現であり、音楽とは異なり固有の言語体系に碇を下ろしている。短歌の場合、さらに音数律という形式が詩型の内と外を線引きする。が、それだけでなく音数上の制約のもとで、最大の表現効果を発揮するために必要な諸々の工夫―短歌的喩や助辞の活用―をも延命させてきた。その意味ではジャンルの凝集性と型の持続を要求する力は、(望むと望まざるとにかかわらず)短歌という詩型にかんするかぎり依然として無意味化してはいない。

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 音楽のみならず、表現全般において大小様々のバベルの塔が倒壊の脅威にさらされ、あるいはとうに廃墟と化している。短歌もその趨勢を免れない。だが、同じような危機がジャンルの違いを越えて、同時多発的に見出されるとしても、それぞれの塔の置かれた場も、あるいは崩壊に到る文脈も多種多様である。その意味では塔が大揺れに揺れる今こそ、このジャンルに内在するロジックを省察するまたとない機会ではないだろうか。

 

 

(*1)「ロマン派の呪縛と現代音楽の袋小路―パウル・ベッカーを参照点に」『大航海』第七〇号、二〇〇九年四月。
(*2)「現代音楽の聴き方?」同上。なお日本政治思想史研究者でもある片山には、戦前の超国家主義歌人・三井甲之にかんする評論がある。「写生・随順・拝誦―三井甲之の思想圏」竹内洋・佐藤卓己『日本主義的教養の時代―大学批判の古層』柏書房、二〇〇六年。