****************** ******************
「季語も一種の〝引用〟だと見ることができる」とは、以前も名を挙げた外山滋比古の言葉である(*1)。「引用」は、過去のよく知られた文学作品をちらりと見せることで、読者に連想の翼を大きく拡げさせ、あるいは言葉の「含み」をつうじて複雑な味わいを与える。これは短詩型文学にとってとりわけ有効な修辞術である。というのも音数上の窮屈さを、言葉の深度によって補うことを可能にするからである。季語は、同じ言葉を使って作られた無数の先例を想起させるという点で、引用とよく似た詩的効果を発揮する。一つの言葉は繰り返し用いられることで厚みを増し、表面的な指示内容とは別に、意味の層を積みかさねる。かくして季語は歴史を背負う。音数の少なさが印象の乏しさに繋がらないのは、言葉が深く掘りさげられているからである。
短歌もまた定型詩としての制約に服している。だが、歌人にはオフィシャルな解法が存在しない。本歌取りは紛れもなく引用の技法にほかならないが、短歌が独創性を信仰する近代文学たらんとするかぎり、強烈な個性による咀嚼と変奏が欠かせない。さらに七七のおかげで制約が緩いぶん、季語というかたちで引用を制度化しなければならないほど切羽詰まってもいなかった。古典和歌には歌枕があったが、近代以後の生活と知性の拡がりをフォローするにはいかにも狭隘に過ぎ、ある種の拡大的運用が必要になる。そこで連想と含みをテクストに与える方法、というほど形式化されてもいないが、言葉遣いが現れるようになる。たとえば、固有名詞を使った歌がそうだ。人名、地名、企業団体名、作品名、作中人物名、商品名等々利用可能な語彙はふんだんにある。ここでは用例が難なく思いおこされた日本史上の人物に絞って考えてみたい。
やくざ雲夕雲さはれ新任の任地さびしき蜂須賀小六
岡井隆『歳月の贈物』(*2)
大根の首切り落すはずみにて首斬り浅右衛門のことを思いぬ
石田比呂志『長酣集』(*3)
いずれも固有名詞の醸す風情を歌のなかに巧みにとりこんでいる。「新任の任地さびしき」「大根の首切り落す」はいずれも現在進行中の感情であり行為である。ここに歴史上の人物の名を配することで、どのような効果が生じるか。第一に、それは作中人物の現在に輪郭を与える。感情や行為に〈意味〉と〈価値〉を充たすのである。一首目。当時岡井は彷徨の歳月を重ねた後、ようやく愛知豊橋に居を定めたばかりであった。そんなわが身を独立不羈の代表的野武士・蜂須賀小六に重ねあわせているのだが、自嘲めいた気分だけでなく、どこかさばさばした、自身の奔放をやさしく受けいれるような視線も感じられる。このとき固有名詞は比喩として機能している。
第二にそれは、主体の営みを客観的に振りかえるための〈視点〉を与える。歴史的人物名の場合、一首のなかに、現在と過去の二つの視点が設定される。直近の感情や行為はいったん過去から眺められることで反省的に捉えなおされる(*4)。二首目の「浅右衛門」とは、死刑執行人として幕府に仕えた山田浅右衛門(歴代当主が襲名)をさす。刃から伝わる重量感ある手応えのために斬首刑が連想され、翻ってこの連想のためにごく日常的な営みが禍々しい気配を帯びるようになる。視点の重層化によって、風景に深度が加わる。
*
固有名詞の用いられ方は、以上に尽きるものではない。そこには無数のヴァリエーションがあり、その一つ一つにおいて主体と対象と言葉は個性的な結びつきを示している(*5)。そのすべてについて検討する余裕はないが、最後に固有名詞を冠せられた対象そのものへの純粋な関心と切れ味鋭い把握が作品を屹立させる事例を紹介したい。
北国の小さき駅を小布施といひ福島正則の墓をおきたり
二宮冬鳥『南脣集』(*6)
冬鳥作品において、過去は現在に奉仕していない。言い換えれば、過去は過去のままに主体の関心を直(じか)に惹きつける。正則といえば秀吉子飼いの武将だが、徳川政権発足後は安芸五十万石を領するも、たちまち改易の悲運に見舞われた。晩年はその生涯からすれば縁もゆかりもない信州に移され、そこで五年を生きて後、現在の長野県小布施町に葬られたという。落魄の後の正則に関心を抱く人は多くない。しかし剛胆と粗野と稚気が正則像の通り相場だけに、異郷で老いを深める姿との落差は歴然としている。他方、冬鳥はといえば、正則に自身やあるいはほかのだれかを重ねるわけではない。あるいは自己表現のために、過去を引いているわけではない。だが、この些末な発見が深い含蓄を蔵していることを敏感に嗅ぎとり、さりげないが丁寧な措辞によってこの事実に注意を促している。「墓をおく」という言葉の冷徹なまでの簡潔さに、かえって強く打たれる。
(*1)「季語は〝引用〟」『俳句的』みすず書房、一九九八年。
(*2)国文社、一九七八年。
(*3)牙短歌会、一九八一年。
(*4)ワーズワースの「静けさの中で回想された情緒」という言葉を引きながら、外山は季語が「退いて眺める」ための心理的きっかけを与える機能に注意を促す。この意味で「季語は過去テンス」にほかならず、ナマな感情は濾過され、洗練された情緒へと高められる。(「季語のテンス」前掲。)この意味で固有名詞は、季語とよく似た働きを果たす。
(*5)たとえば高野公彦に「雨月の夜蜜の暗さとなりにけり野沢凡兆その妻羽紅」という高名な一首がある(『雨月』)。ここで固有名詞は比喩や重層的視点とは別のロジックによって導かれているように思われる。小島ゆかりの「剃髪した妻の名羽紅には妖しい艶(なまめ)かしさが漂う」という鋭い指摘から示唆されるとおり、ここでは「雨月」→「蜜(の暗さ)」→固有名詞(とくに「羽紅」)といった〈縁語〉的な連想が人名への飛躍を無理なく誘いだしている。この作品からは、言葉と言葉のあいだに働く自律的な引力をみとめることができる。小島ゆかり『高野公彦の歌』雁書館、二〇〇六年。
(*6)白玉書房、一九六四年。