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帰省は、日ごろ手を出しにくい本を読む好機である。実家には、京都の仮住まいでは置き場に困る『斎藤茂吉全集』を預けてあるので、去年は第十五巻収録の「柿本人麿・総論篇」その他を読みながら盆休みを過ごした。この大著のハイライトは人麻呂死歿地をめぐる論考であり、万葉研究というよりは歴史の謎解きとして享受されることも多い(*1)。
鴨山の磐根し纏(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
(巻二・二二三)
万葉集に人麻呂の死を伝える直接資料は「柿本朝臣人麿在石見国臨死時自傷作歌一首」という詞書から人麻呂自作とされる右の歌と、それにつづく妻・依羅娘子(よさみのをとめ)らによる挽歌数首を措いてほかにない(*2)。畢竟「鴨山」とは石見(現在の島根県西部)のどこにあったのかという謎を解くことが論考の中心的主題であり、前年のダンスホール事件とそれに伴う妻との不和がもたらした「精神的負傷(藤岡武雄)」を忘れようとするかのように、茂吉は昭和九年から一年ものあいだ「鴨山」の探求に熱中することになる(*3)。
史書・伝承・考証・地誌の類を博捜し、実地調査も踏まえた茂吉の論証ぶりについては本書をご覧頂くとして、私の注意を惹いたのは次のような箇所である。
鴨山の磐根し纏けるであるから、ただの丘陵或は小山ではあるまい。
粕淵を過ぎて浜原に入らうとするところから江ノ川を眼界に入れつつ、川上の浜原、滝原、信喜、沢谷の方に畳まつてゐる山を見るに、なるほどこれは、『石川の峡』に相違ないといふ気持が殆ど電光のごとくに起つたのであつた。(略)石見国にあつて、『石川に雲たちわたれ見つつしぬばむ』の語気に異議なく腑に落ちてくる山河の風光はこのあたりを措いてほかにあるか否か。
私は直ぐこの津目(つのめ)山を以て人麿の歌の鴨山だらうといふ見当をつけた、そして、その日の夕方も来て見、次の日も来て見、また次の日も来て見たが、鴨山はこの山でなければならぬといふ程までになつた。東京にゐて見馴れない地図の上で想像してゐたのと違ひ、計らずも目のあたりこの山を見たとき、私の身に神明の加護があるのではあるまいかとさへ思へた程である。世の人は私のかういふ主観的な言ひ方に忍耐せられたい。
研究書の体裁をとった論考のなかに、茂吉の〈人〉がぬっと顔を出したかのような文である。梅原猛は「詩人の鋭い直観は、まさにこの浜原の地に、万葉集における人麿の歌が響いているのを見たのである」と皮肉っぽい調子で述べた後、右とほぼ同じ箇所を引用し批判を加えるための糸口とする。たしかに茂吉が「鴨山」を津目山(旧粕淵村)と確信した最大の根拠は何かと言えば、おおざっぱに言えば茂吉の感覚であり、すこぶる主観的な判断であった。一見したところ茂吉の検証作業は物量作戦というべきか、その研究をみずから「人麿百貨店」と呼んだのに相応しく、周辺的証拠の徹底的積みあげに基づいている。しかし確信を支える心証はというと窮極のところ、眼前の風景が作品三首から茂吉が受けとった印象と一致しているかどうかという点にかかっている。すなわち万葉歌をどう読むか、どう読みたいかという鑑賞なり欲求なりがまず先にあり、そこから導かれる主観的風景像に合致する風景が粕淵周辺に探し求められているわけである。
茂吉の検証を嘲笑することはたやすい。が、私にとってより興味深く思われるのは茂吉の万葉享受のあり方である。茂吉はこれらの作品を読みながら、雄渾で壮大な自然像を思いうかべている。茂吉にとって万葉人が目にし、歌にした風景は「ただの」「小山」ではない、あるいは「語気に異議なく腑に落ちてくる」自然でなければならない。こう言ってもよい。茂吉が歌にあってほしい、歌に価すると考える自然観がその万葉解釈に投影されている(*4)。
と、ここまで記したところで『風景と実感』の著者・吉川宏志ならこれぐらいのことはすでに論じているかと思い同著を眺めなおすと、傍論ながら、はたせるかなあった。昭和一四年に茂吉が制作した新国民歌「国土」をつうじて、火山が愛国精神を象徴する風景となった時代背景について考察した「風景とナショナリズム」である(*5)。大正時代までの茂吉の火山描写は概して柔弱で「母性的な風景」と結びつけられていたのが、この時期にはナショナリズムを昂揚させる「男性的な凸型の風景に変容している」。その要因をいくつか挙げるなかで、吉川は万葉研究の新しい潮流に着目する。当時綿密な地理調査に基づいて、万葉の風景観を洗いなおす作業が進められていたらしい。しかしそのような研究によって「万葉の風景が小ぢんまりとしたもの」とされてしまうのは、茂吉にとって耐えがたかった。だからこそ「超越的な風景を求める気持ち」はいっそう強くなり、この感情が鴨山考にも投影されているのではないかと吉川は指摘するのである。
じっさい万葉集の読者がどのような風景を思いえがくかということは、万葉歌人の見た風景が現にどのようなものだったかとは、元来別次元の問題である。両者が相異なるということは十分にありうる。私じしん「香具山は畝傍ををしと耳梨と相争ひき」(中大兄皇子、巻一・一三)で知られる大和三山をはじめて見たとき、優美な香具山と無骨な畝傍山が長歌の印象とあまりに不釣り合いで、憮然とした思い出がある(*6)。このような不調和感は、近代以後の自然観を無自覚に古代以前の風景に遡及させることから生じるものだろう。同様に近代歌人は万葉に来るべき歌の理想像を見いだしたが、その理念が万葉の実像そのものであったと言うことはできない。
だからと言って茂吉やアララギの万葉享受は無意味だったと言うつもりは、私には毛頭ないのである。いかに誤解を含むものであれ、再解釈がなされうる余地があったからこそ万葉は近代に到って復活し、翻って近代歌人に多大な霊感を吹き込んだのだという事実は残る。少なくとも実作者にとって古典や伝統の継承と呼ばれるものには、そのような側面がつねに含まれているのではないか。逆に言えば、後世の人々の想像力を逞しくする要素を内在させているからこそ、古典は古典としての生命力をもちうるのではないだろうか。
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よく知られているとおり、茂吉の鴨山研究には後日談がある。数年後、苦心の論証の所産である津目山説はあっさりと放擲(と言ってもその口調からして本人は微修正のつもりだったようだが)されてしまうのである。粕淵村在住の苦木虎雄より同村湯抱(ゆがかえ)に「かも山」なる山があることを知らされた茂吉は、実地踏査の後に旧説に代えて、この「かも山」をもって人麻呂終焉の地にあらためて比定した(*7)。旧説では津目山を仰ぐ場所に「鴨」からの転訛と推定される地名「亀」があることと茂吉の風景観だけが拠り所であったわけだから、そのものずばり同名の山が発見されたことは、茂吉にとってさぞかし心強かったことだろう。激しい口吻とは裏腹に、旧説の弱点に茂吉じしん一抹の不安を禁じえなかったのではなかろうか。
ともあれ現在湯抱には茂吉の「人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ」(*8)を刻む碑が立ち、記念館も設けられているという。私はいつかこの地を訪ねたいと思っている。人麻呂というよりはむしろ茂吉その人の内面に思いを巡らせたいからである。
(*1)謎解きといっても乏しい資料に基づく推論にすぎないから、反論や新説が現れることは避けられない。茂吉批判(というより茂吉との対決)から生まれた梅原猛『水底の歌』は最もよく知られたものであろう。新潮社、一九七三年。このような議論が無意味なものとは、私は考えない。というのも死歿地をめぐる論争もまた人麻呂という歌人の享受に関わるものであり、享受が作品の形成と成長にとって不可分の要素である以上、それを軽視してよいとは思わないからである。このような観点から平安以後の人麻呂享受に光をあてた著作として、片桐洋一『柿本人麿異聞』和泉書院、二〇〇三年。
(*2)依羅娘子の作品は次のとおり。「今日今日とわが待つ君は石川の貝に〔一云、谷に〕交りてありといはずやも」(二二四)「直(ただ)にあふはあひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ」(二二五)。表記は佐佐木信綱編『新訓万葉集・上巻』岩波文庫、一九二七年に拠った。茂吉は橘守部や近藤芳樹の所論にしたがって「貝」を同音の「峡」と読みかえることで、人麻呂死去の地を従来有力であった高津説(益田市)のような海浜部から江川沿岸の山間部へと移動させた。
(*3)藤岡武雄『新訂版・年譜・斎藤茂吉伝』沖積舎、一九九一年。「鴨山考補註篇」の序に茂吉はこう述べる。「(略)主観的にいへば現在の私には『鴨山考』のごときものを弄んでゐることが飲食以外の唯一の慰楽であり、業余消遣の唯一の途であつたといふことになるのであらうか」[引用にさいしては、漢字を新字体に改めた。]。さらに万葉研究への茂吉の復帰の背景として、品田悦一は赤彦死後茂吉が引き受けなければならなかった「万葉尊重のアララギ総帥として」の役割を指摘する。「『万葉秀歌』遍満する日本精神」『現代思想』第三三巻第七号、二〇〇五年。
(*4)ただし茂吉は、万葉の山岳詠に雄渾さだけを見ていたわけではない。昭和一四年執筆の「万葉集と自然美」では「久方の天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(巻十・一八一二)などを挙げて、山への「親しみ」や「よそよそしくない、親愛抱合の心の状態」を指摘している。『全集』第一四巻所収。
(*5)吉川宏志『風景と実感』青磁社、二〇〇八年。
(*6)私は茂吉の説のとおり「雲根火雄男志等」を「畝傍を愛(を)しと」とする訓みに、いつのまにか親しんでいたのである。これにたいして「畝傍雄々し」とする説も昔からあった。斎藤茂吉「中大兄三山歌評釈」『全集』第一三巻所収。
(*7)斎藤茂吉「粕淵村湯抱の『鴨山』に就いて」『柿本人麿・雑纂篇』岩波書店、一九四〇年。
(*8)昭和一二年作「湯抱」中の一首。『寒雲』古今書院、一九四〇年、所収。