主語と時間

三月中にもう一度書きます、といいながら、すっかり遅くなってしまいました。もう数時間で4月になってしまいますね。

3月24日から26日にかけて、仕事の都合で仙台に行ってきました。仙台市内では、電気・水道・電話の状況は随分改善されているようでしたが、都市ガスの復旧が遅れているような状況でした。もちろんそうした復旧の状況も、道路一本隔てると違っていて、一概に論じることができませんし、そこに今回の被害が大きさが如実に現れてもいるようです。

仙台市にほど近い新港の周辺へ車で入れるところまで行き、言葉を失いました。津波被害をまさに正面から受けた地域は、二週間経ったその時でも、まざまざと津波の威力を示していました。破壊された乗用車が無惨な姿で転覆していたり、貨物コンテナが道を塞いでいたり、柱だけになった民家が虚ろな空間を――そこには団欒があっただろう空間を――見せていたりしていました。この場所に、この車の中に、人が居ただろうことを想像することさえ苦しくなるような場でした。それが東北の太平洋側一面に拡がっていることを考えると、その途方もなさに、一瞬間思考停止してしまいそうになります。震災二週間後に、仕事の関係で垣間見ただけの僕がそう感じる位ですから、被災された方々の心の中を軽々しく理解できると思ってはいけないのではないかとも思います。

「千年に一度の大地震」と言われ、貞観の地震・津波(869年)に比較される今回の大地震ですが、貞観の地震は在原業平が四十四歳の頃ということになります(今の僕と同じ年齢です。あ。余計な情報です。すみません)。

また、鴨長明は元暦の大地震(1185年)について次のように記載しています。

——–引用ここから——–

また、同じころかとよ、おびたたしく、大地震ふる事侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて、河を埋み、海は傾きて、陸地を浸せり。土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷に転び入る。渚漕ぐ船は、波に漂ひ、道行く馬は、足の立ち所を惑はす。

——–引用ここまで——–

まさに長明が残した文章は、つい先日の地震を書き記したと言われても了解してしまいそうです。

近くの大地震では関東大震災が思い出されます。

1.地震来ばだきだしやらむ今は寝よといへばうなづきわれ見る童

2.妻も子も死ねり死ねりとひとりごち火を吐く橋板踏みて男ゆく

3.大地震(おほなゐ)の焔に燃ゆるありさまを日々にをののきせむ術なしも

4.体ぢゆうが空(から)になりしごと楽にして途中靴墨とマツチとを買ふ(註:「体」は本字)

5.よろず皆そらごとなりとのたまひし教まさしう身にしみし夜や

6.人もわれも阿鼻叫喚の地獄界ただに譬喩(たとへ)とおもひてありき

 

1・2は窪田空穂『鏡葉』に収載されている大震災直後の作品です。余震に怯える子供達を慰め眠らせる父空穂の歌と、震災後の火事に焼かれつつある東京の一場面です。3・4は斎藤茂吉『遍歴』の中にある作品です。この頃茂吉はドイツに居ました。3の歌は9月3日の夕刊で日本の震災を知った時の歌で、4の歌は13日に家族・友人が無事であったという報を受けた際の歌です。5・6は九條武子『薫染』の中に「震災一周年の日二首」と題されている作品です。震災後に被災民への救援活動(いま風にいえば災害ボランティアでしょうか)をした武子が、一年後にその震災を振り返って詠っている歌です。

地震大国と言われる日本ですから、僕の部屋にある本を10分程度探しただけでもすぐにこれらの記録や作品を引用することができてしまいます。

さて一方で先日3月28日の朝日新聞の「短歌時評」で田中槐さんが、「短歌現代」三月号の歌壇時評における吉川宏志さんの論に関連して、次のように書かれていました。

——–引用ここから——–

〈類型〉が嫌われるのは、それが〈類型〉であることに無防備だからではないだろうか。短歌は、膨大なデータベースの上に成り立っている。相聞歌であれ、挽歌であれ、山のような「似たような歌」で溢れているのだ。(略)多くの歌人はそのデータベースの先に自分の作品があることを自覚している。「かけがえのない私」の「かけがえのない経験」など、そうそう起こりえないことを知っている。(略)三月十一日の東日本大震災で、わたしも生まれて初めての恐怖を感じた。まさに「かけがえのない私の経験」だった。直接被災したかどうかにかかわらず、多くのひとがそう感じているだろう。だが、今、その「かけがえのなさ」をうたうべきだとは思えないのだ(「べき」に傍点)。

阪神大震災のあとのように、これから新聞歌壇、総合誌、結社誌には震災をうたった作品が溢れるのだろう。それを悪いことだとは思わない。体験を歌にすることで恐怖心を昇華させたり、慰謝できる力が短歌にはある。しかしそれらの多くが、ただの〈類型〉作品の群れになることは、短歌にとり最上とは思えない。今、何を、どううたうか。こんな時こそ、考えたい。

——–引用ここまで——–

朝日新聞東京版の13版では11面にこの論が掲載されています。同じ面には「被災地からの詠 強い意思に敬服」と題された記事や、その裏面12面には「東日本大震災を詠む」俳句・短歌を募集している旨の記事があり、投稿歌にも地震を詠ったものがある。その中で、まるで槐さんが一人苦言を呈しているかのような状況になっています。

 

あの短い「時評」ですから、その意図を充分に理解できたどうかは解りませんが、槐さんが指摘したのは、共通体験としての事件を詠う場合の〈類型〉と〈独自性〉の根本的な問題だと思います。さらに言えば、プロフェッショナル歌人とアマチュア歌人との作品の相違という「第二芸術論」以降未だ明確な答えが無い問題への指摘も含まれているでしょう。槐さんはそこに一定の回答を、すなわち、震災を詠った歌の多くが〈類型〉的な作品になる状況を「悪いことだとは思わないが、短歌にとり最上とは思えない」と判断しているということだと思います。これについては、僕も共感しますし、同意もします。

 けれど僕が気になるのは、この一文における主語の欠落です。

 

「だが、今、その「かけがえのなさ」をうたうべきだとは思えないのだ(註:「べき」に傍点)。」

 

・「思えない」のは誰か

・「うたうべき」なのは誰か

・「うたうべき」と言う(思う)のは誰か

 

忖度するに、「こうした大事件があると往々にして「歌人はこのかけがえのない体験こそ詠うべきだ」という論が現れるが、わたしにはうたうべきだとは思えないのだ」という意図で書かれた文章なのでしょう。

 

その場合、

 

・「思えない」の主体は「わたし」

・「うたうべき」の主体は「歌人」

・「うたうべき」と言う(思う)主体は、「うたうべきだと主張する人」

 

ということになるでしょう。

いささか(というより僕の論はいつもそうですが)トリビアルな問題設定になってしまいましたが、この主体とその時間こそが〈類型〉論議の際に欠落するものではないかと考えています。

ある作品(A)と他の作品(B)が似ているという場合、その作者が一人であれ、別人であれ、その類似性は作品そのものについてのみ語られているということになります。その論からは、作者が一人である場合には時間が欠落し、別人である場合には、主体と時間が欠落します。また同様にある経験(A)と他の経験(B)とが似ているという場合も、その類似性は経験内容についてのみ語られ、その経験者と時間については捨象されているということです。旧約聖書を引用するまでもなく「日のもとに新しきものなし」とは、誰もが経験的に思っていますが、AとBとの共通項を探す際には、必ず何等かの捨象が行われているのであって、〈類型〉は捨象の上に成立する概念です。

 

先に引いた空穂・茂吉・武子の歌も、震災の歌の〈類型〉に属さないとは言い切れません。作者名を外し、詞書や解説を除いてしまったら、その作品の固有性や独自性はどこまで伝わるものでしょうか。震災時の歌として一纏めにしてしまったら、或いは「ありがちな歌」や「背景が解らないと解釈できない歌」というレッテルを貼られてしまうかもしれません。阪神淡路大震災の時の歌と言ってみれば、通用してしまうかもしれない。また、僕が冒頭に書いたような文章は(もとより駄文ですが)、長明の記述における「馬」を「自動車」に換えるだけで事足りるのかもしれません。

 

誤解を恐れずに言えば、ある作品を他の作品と比較し、相似性や類型性について論じるということは、その作品を「意味」の系列から、「価値」の系列へと置きかえるということです。

 

作品は作者にとってある「意味」をもっている。しかし作品は他の作品との比較や受容者との関係において、その「価値」が決定される。

「意味」はそのものに固有の独自性を担うものですが、「価値」は他との比較と関係性の中で決定される相対性を担うものです。

 

作品から作者性=「誰か」や「いつ」という時間性を捨象した時に、作品は「価値」の系列におかれます。換言すれば、言葉をある明確な主体のある時間のものとして理解しようとするとき、その言葉は価値の系列から「意味」の系列に戻し置かれることになります。短歌作品を作者やその時代に置き戻して理解しようとする時、作品は独自の解釈とともに固有の意味を取り戻すことになります。解釈と評価は、常にこの意味の系列と価値の系列との揺動の中にあると言っていいのでしょう。槐さんが、いみじくも「データベース」と表現したのは、作品を基準としてその属性としての作者や制作年代を考えるという作品主義の考え方が歌人にとって重要であることを示しているのだと思います。

 

もちろん作品は常に意味と価値との、絶対性と相対性との中にあり、かつそれらから自由に存在しますから、どちらの系列の中にあってもその作品が変わるものではありません。

ある事件や災害に関わった人達の歌がある場合、その歌を意味の系列の中で理解するのか、それとも価値の系列の中で理解するのか、その解釈の仕方によって作品受容の方法が大きく変わることになります。これについては、作品を作る=「詠む」場合ではなく、作品を「読む」場合に自覚的である必要があるのではないでしょうか。

 

そして未だ発災中とも言える現在にあっては、上に述べたような言葉の「主語」について、いつも以上に自覚的でありたいと、僕は思っています。

というのも「こうした時期には自粛するべきだ」というような、主語を欠いた言葉が多く罷り通る状況に対して、批判的でありたいと考えるからです。

「わたしは今年は花見を慎む」という言表ではなく、「日本人ならば花見を自粛するべきだ」という類の言葉には、慎み深いかのような表現の裏側に、無責任な価値の押し付けが存在すると考えるからです。おっと。既に選挙期間中ですから、これ以上は口を慎むことにします。

 

はい。僕は今年も、いつも通り花見するつもりです。ただ今年はビールやワインではなく、地元福島の酒にします。