復する

三月分を月末に書いたので、もう少し後に書こうかとも思ってましたが、この欄の担当者タカハシさんの誕生日が先日4月15日だったってことなので、おめでとうございます!を言う代わりに更新することにしました。二日遅れになっちゃって、ごめんなさい。

 

 先の震災からまだまだ大きな余震が続いている時期なので、短歌に関することを充分に考えることが出来ているわけじゃないんです(まあ、いつもそれ程考えているのかと言われれば、言い泥みますが)。まだまだ呆然としているのが実際です。手許の歌集や歌誌を読みながら、震災前と震災後とで、作品の受取り方が違っていることに不思議な感覚を抱いています。

 

鈍色の聲、もて、告げむ   ――瞬間に、是くも多くの人間、死にたり。と

人類を泯ぼす…… なんて、簡単、さ!   地球が(鳥渡)身動げば、いい

人類は(もう)泯んだか?    海は泡立ちぬ。地は揺らぎぬ。ひとしきり

てな次第で、人類に告ぐ  ――死に絶えなさいな! 無慈悲な神もろともに

     石井辰彦『詩を弃て去つて』(註)

 

この三月に出版された石井辰彦さんの歌集『詩を弃て去つて』(書肆山田)から引用しました。「海は泡立ち地は揺らぐ日に」という一聯の作品の中にある歌です。2008年5月に発表された作品を歌集に収載したものですから、先日の震災とは関わりはありません。もしこれを「予言的」とでもいうのであれば、むしろ今回の地震についてであるよりも、2008年6月の岩手・宮城内陸地震の直前ですから、それについて言おうと思えば言えるかもしれない。けれど、この作品はこの地上に住まう人間にとっての一般論的観念であると言っていいのでしょう。そして引用最後の作品について、この時期ですから過剰に反応する人も居るかもしれません。僕が感じた「不思議な感覚」というのも、この点にあります。以前であれば、聴き流していたかもしれない、こうした諦念に充ちた虚無的な言葉に、言いようのないかなしみを聴き取ってしまうようになっている。蓮っ葉な言葉の裏側に、「自然」には慈悲という観念すら成立しないことを語り、何より、人類である《われ》自身に「死に絶えなさいな」と告げている。その言葉には、そうでも言わなければ立っていられないような虚勢と、絶望的なかなしみがあるのではないんだろうか。或いは、人あって、「被災した人に向って「死に絶えなさいな」などと言えるか!」と憤激するむきもあるかもしれない。けれども、こうした「死」の宣告は、この世界に死なずに生き残ってしまっている、という意識に苛まれている人の自責の念と、根本は同じなんじゃないかとも思うのです。あの人が死んで、この自分が生かされているのは何故か。無慈悲な神に弄ばれているくらいならば、その神を道連れにして、いっそ、と、考える思考は、言葉がむかっていく方向こそ異なるものの、絶望の根は同じなんだと思うのです。

一体に、石井さんの今回の歌集は、諦念や虚無感が今迄の歌集よりも色濃いようです。

 

限りなく孤獨な《私》―― 最愛の伴侶のかたはらに寝てゐても

血塗れの《私》を罪するな! 怖い話は(みんな)夢、なの、だから

謹んで後人に請ふ。――花を掃く箒もて我が骨も掃へ、と

 

聯作として、特に朗読を意識して制作された作品であるところの石井さんの作品を、こうして聯から抜き出すのは、作者の意図から外れてしまうことかもしれないのだけれど、こうした寂しい心の歌や死に対する虚無的な美意識に貫かれているということを理解するのは、「死に絶えなさいな!」という叫びの本質を理解する上で、重要なものなんだと思います。

 

  ※  ※  ※

 

並み立てる冬の欅の梢(うれ)けぶり真横につらぬきゆく鳥のかげ

正気に戻るその一瞬のおそろしさ 樹海の中に置かるる鏡に

炎天に会へば涼しも青黒き忿怒の肌の不動明王

会へぬ人ばかりとなりぬ流れゆく羽衣のやうな夜の白雲

     花山多佳子『胡瓜草』(砂子屋書房)

 

花山多佳子さんの歌集『胡瓜草』から引用しました。今月5日上梓されたばかりですが、一冊読み終って、懐かしい日常に帰ってきたような感じがしました。娘・息子など家族を描いた歌に日常性を感じるということばかりではなさそうです。上に引用した作品は、むしろ詩的な光景や日常の裂け目のような一瞬が捉えられている場面かもしれません。けれど、この景を見ている「われ」が、確かな実在性を持った主体であって、その「われ」が詩の景を見ているということが、確固たる歌の基盤を感じさせるのではないでしょうか。

 

姿煮と表示されゐる真空パックの小さな魚これは姿か

電線のなかりしころは鳥たちはあんなに並んで止まることなかりけむ

バス停に並ぶ傍へのおばさんの手が伸びきたり わが襟なほす

電子辞書ひらくつもりがケータイをひらきて指はしばしさまよふ

 

あるいは、このような歌の中に感じられるユーモアやヒューマニティが、生きる=生活するという場面での人間のありようを伝えているということが、懐かしさのモトなのかもしれません。ただ、こうした「懐かしさ」の感覚はこの震災の影響が多分にあって、僕の感想は、花山さんの今回の歌集を特徴付けるものではないのでしょう。四百首以上もある歌集なので、もっといろんな側面から読むことができる豊かな歌集だと思います。

 

  ※  ※  ※

 

震災前の話が、既に遠い昔のように感じてしまいますが、2月26日(土)に第十一回「折口信夫会」が開催されました。「折口学と迢空短歌(Ⅰ)」というテーマで、成瀬有さんと藤井貞和さんの発表があり、また岡野弘彦さんによる「迢空はどのように啄木の短歌を受容したか」という内容の講和がありました。岡野さんの講和は、師である折口さんとの思い出に満ちたもので、僕なんかにとってはいささか取っつき難い印象がある迢空の、人間的な姿が立ち現れてくるものでした。

成瀬さんの発表は、藤井貞和さんが去年の12月中旬に上梓した『日本語と時間』(岩波新書)における助動詞理解を援用して迢空の短歌を解釈してみるという試みでした。一首に用いられている助動詞の時間意識を丁寧に掬いあげると、重層的な時間意識が詠まれているということが理解できるのではないだろうか、という「読み」の提案は、平板化した現代の助動詞の中で生きている現代歌人にとって、刺激的な示唆に富んでいました。

藤井さんは、その著書『日本語と時間』について「現代において短歌を作っている歌人には、毒になるかもしれない。でも一番、歌人に読んで欲しい」ということを語っていて、まさにこれは一読しておいたほうが良いと思うんです。いや、今後の歌作りの参考にはなりませんし、藤井理論で助動詞の時間を詠んだとしても、それを解釈できる「読者」が、この本を読んだ人達だけに限定されるとすれば、それは文語を活かしていることにはならないかもしれません。まして現代口語を用いながら作歌している歌人にとっては、「じゃあ、どうすればいいんだ」という問いが深く残ることになります。

 

 

 ―――――引用ここから―――――

〈き、けり、ぬ、つ、たり、り〉という、古文では六種の時に関する助動辞があった。「けむ」もあり、ar-i(あり)もかぞえると八種(“あり”と“り”とを一緒にしてよければ七種)。多様な時の考え方を古代の人々は持ち、それらを日常的に使い分けて、かれらは言語生活を送っていた。かれらの毎日が、何と豊かで面倒だったかを想像すると、たいへんだなと気の毒でもあり、うらやましくもなる。

そんな複雑さをどう現代語訳すればよいのだろうか。〈き、けり、ぬ、つ、たり、り〉の六種は、近代に「~た」一つになった。六種がたった一種に!である。「けむ」は現代語「~たろう」(あるいは「~ただろう」)となりar-i(あり)が現代語の「~である」のうちに生きのびている。

 ―――――引用ここまで―――――

 

『日本語と時間』の「あとがき」から引きました。このようにはっきりと言われると、現代の日本語の書き言葉が喪ってしまったものの大きさに、改めて驚きます。二葉亭四迷の『浮雲』から既に、120年強が経過しています。短歌作品の中に、比較的文語が生き延びてきてはいるけれど、では、助動詞(藤井さんの用語では「助動辞」)の解釈を、僕らは正確に出来ているんだろうか。正確に活用できているんだろうか。我が身を省みて心許ないこと、頻りです。

 

喪失からの回復。これはなにも震災に限ったことではないんじゃないか。合理化・近代化の中で喪われたものを見極めたとき、復興するに値するものが見えてくるんじゃないのか。そんな気がしています。

いや、それもまた震災の後遺症的な心持ちに影響された感想なのかもしれませんが。

 

 

(註)

石井さんの歌を、こういうブラウザ上で読まれるテキストとして引用するのはとても難しいのです。歌集における言葉の配置には、ある意味、図形詩的な配慮が施されているので、出来れば原典にあたって欲しいと思います。上記の歌では、なるべく綺麗に見えるようにルビを外しておきましたが、読みの問題もあると思いますので、原文に付されているルビを括弧付きで加えておきます。

 

鈍色(にびいろ)の聲、もて、告げむ   ――瞬間(つかのま)に、是(か)くも多くの人間(ひと)、死にたり。と

人類(ジンルイ)を泯(ほろ)ぼす…… なんて、簡単、さ!   地球が(鳥渡(ちょっと))身動(みじろ)げば、いい

人類(ジンルイ)は(もう)泯(ほろ)んだか?    海は泡立ちぬ。地は揺らぎぬ。ひとしきり

てな次第(わけ)で、人類(ジンルイ)に告ぐ  ――死に絶えなさいな! 無慈悲な神もろともに

限りなく孤獨な《私(わたし)》―― 最愛の伴侶(ハンリヨ)のかたはらに寝てゐても

血塗(ちまみ)れの《私(わたし)》を罪(つみ)するな! 怖い話は(みんな)夢、なの、だから

謹んで後人(こうじん)に請ふ。――花を掃(は)く箒(ははき)もて我が骨(ほね)も掃(はら)へ、と

 

編集部より:花山多佳子歌集『胡瓜草』はこちら↓

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