耳傾ける

うかうかしているうちに、もう5月も下旬になっていて、このコラムを更新していないことに慌ててしまいました(担当のタカハシさんには、いつもいつも心配を掛けてごめんなさい)。夏めいた日射しがまぶしい季節ですが、このうつくしい光にも、崩壊した原子炉からの放射能が幾分か含まれているかと思うと、素直にこの日射しを喜べなくなってしまいます。放射線による被害は目に見えるものじゃなくて、「未来」を想像しないと解らない、ということを言う人がいます。歌人の想像力を、この現実は超えてしまっているのか、それとも予め知られていた「未来」がこの今であるのか、Fukushima出身の僕としては、これまでの僕自身の想像力の貧困を反省しながら、想像こそがその存在理由であるところの歌人として、毎日を問われつつ生きている感じです。

「個人の言葉」と「共有の言葉」というものを考える時が、僕はあります。特に、自分の文章や作品が批判されたような時に。
自分が考えていることは、自分にとっては自明なことだから、それを語った時に人から批判されるなんてことは、実は考えてない。でも、それを語ったときに思ってもみなかった批判=反撃的反論を浴びてしまうことがあります。それに対しては「なるほど!」と感嘆したり、「バカかこいつは?」と反発したり、「んー!?」と唸ってみたりしながら、けれど自分の論に反発した人には不思議な体温を感じてます。近寄って来る体温を。

そうした時、自分の思いを表現した筈の言葉が、それを読んだ人にとっては、またその人である「自分」の言葉になっている。その「自分」の言葉を、この僕がどういう意味で使うべきか。そもそもの自分が使っていた意味で使うのか、それとも、その「人」がつかっていた言葉の意味にまで拡張して利用するべきなのか。つまり、同じはずの言葉や一つであるはずの事象が、「自分」の違いによって、全く異なるものとなっていることに気付いたとき、どのような方途で、他者であるところの「自分」にその言葉や事象を伝えるか、途端に困ってしまうのです(この辺りを逆説的に小説として書いたのが、今年の大江賞を受賞した星野智幸さんの『俺俺』という作品でしょうか)。反論に直面した際に感じる怒りの感情とは、多くの場合、その困惑の裏返しです。
他者の議論を見ても、そうしたものを感じてしまいます。

「短歌研究」二月号の特集「わからない歌」において千々和久幸さんが書かれた「諧謔と韜晦」という文章を発端として、千々和さんと斉藤斎藤さんとの間で議論が生まれています。

1.馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ      塚本邦雄『感幻楽』
2.子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向って手をあげなさい」    穂村弘『シンジケート』
3.サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
4.自動販売機とばあさんのたばこ屋が自動販売機と自動販売機とばあさんに 斉藤斎藤『渡辺のわたし』
5.うつむいて並。とつぶやいた男は激しい素顔となった

千々和さんはこれら五首を引用して、次のように述べています。

——–引用ここから——–

 
わたしの五十年余の作歌体験の中で、戦後短歌の屈折点と思われる節目が二度あった。一つは一九五〇年代に塚本邦雄らに主導された「前衛短歌」の擡頭であり、いま一つは一九八〇年代に社会現象とまで言われた俵万智歌集『サラダ記念日』と、それに続く穂村弘歌集『シンジケート』の出現である。
塚本の掲げた「魂のレアリスム」と、ライトバースと綽名された軽口口語短歌。ニックネームはどうあれその衝撃の大きさを実感に即して言えば、前者は「近代短歌」の燎原を焼き尽くす大火であり、後者は街角でたまたま目撃した小火(ぼや)であった。短歌の往路で出遭った「前衛短歌」にわたしは憧れ、詩を造形する面白さを知った。そして己の短歌の行方がどうやら見え始めた帰路で目にしたライトバースには、盛りを過ぎたわたしの肉体も感受性も即座に反応することはなかった。(略)
両作品(引用者注:穂村・斎藤の両作品)に共通しているのは、シリアスな主題と命を賭けて切り結ぶことへの躊躇と照れであり、その裏返しとしての諧謔と韜晦である。主題をずらし主題を空洞化し、それを諧謔に紛らせて韜晦するという方法をとる。作品の重量は削がれ、イノセントな気分だけが軽妙な音楽に乗って差し出される。
穂村は武装し、斉藤は手放しで俗に身を置く。覗き趣味的な興味で読者を引きつけ、最後は巧みに身を躱し体を入れ替える。(略)
4、5番の歌、わかる歌にするために専門歌人(結社で長年作歌の修練を積んだ歌人)に補強を依頼したら、次のごときメモが添えられて改作が返ってきた。
「歌人をおちょくっている歌だ。シチュエーションだけがあってプロットがない。ゆるキャラ的面白がり。こんな命の賭け所を韜晦したような歌に付き合う暇はない」、とあった。そうだろうとも、そうでしょうとも。
4番、5番の補強例は次の如くである。
・ばあさんのたばこ屋ついに自販機が二台となりてばあさん遊ぶ
・うなぎ屋の卓にうつむき「並」というそのはにかみの素顔きびしき
原作はメモの言う通り、パーツはあってもメカニズムがない。デジタル時計よろしく時刻はあっても時間はない。専門歌人は4番の作品の饒舌に苛立ち、5番では逆に欠落部分に歯軋りする。(略)
わからない歌と「対決」する気もなければ黙殺もしない。ただ一瞥して通り過ぎるだけである。短歌が〈人生を盛る器〉から〈人生を揶揄する快楽〉に変容して久しい。

——–引用ここまで——–

長い引用になりましたが、議論の発端となったものですから、なるべく省略しないでおきました。これに対する斉藤斎藤さんの反論は、「短歌研究」三月号の「短歌時評」として出された、次のようなものです。「作品の背後を覗くな」という題が付されています。

——–引用ここから——–

(略)これでは意味が違ってしまう。原作(引用者注:先の4番の歌)は、自販機一台と小窓のばあさんのタバコ屋が、ある日気がつけば小窓はなく、自販機二台になっていた。という、通りすがりに見た、同じ場所の二つの時間の光景を、モンタージュした歌であろう。デジタルな時刻しかないという指摘は的確だ。それに対し改作では、「ついに」「なりて」により、(若かりしばあさんのタバコ屋)→自販機一台と中年のばあさんのタバコ屋→自販機二台と隠居したばあさん、とタバコ屋の歴史が発生し、それを見続けた作中主体とばあさんの人間関係の履歴が発生している。
ここにふたつの問題がある。第一に、文体の問題である。筆者の乏しい経験から言えば、切断された、デジタルな時間表現に向いているのは口語であり、連続的な、アナログの時間表現に向いているのは文語である。ここは専門歌人氏に教えを乞いたいのだが、原作のデジタルな時間感覚を損なうことなく、文語定型に「補強」することは、はたして可能だろうか。筆者は答えを思いつかない。ふたつの時間の切断部に現代語を接ぎ木したり、倒置や一字空けでしのぐなど、専門歌人氏の美意識に適わない歌になるのではないか。
もしそうだとすれば、第二に、人生の問題である。もしも私が文語定型の歌詠みで、原作のような体験をしたとする。その場合、①私は「補強例」のように、デジタルな実体験をアナログ化し、ばあさんとの歴史を歌において捏造すべきである。②通りすがりに見た光景など詠むべきではない。③ふだんから作歌に困らないよう、タバコ屋のばあさんと人間関係を築いておくべきである。筆者が「命の賭け所を韜晦しない」と誓うとすれば、千々和が私に選べと言うのは①②③のどの選択肢なのだろうか(複数回答可)。(略)
私は、タバコ屋のばあさんに興味がない。自動販売機の歌は、実体験をそのまま歌にしただけである。(略)千々和にとって不可欠なものが斉藤にないからといって、千々和は斉藤の背後を覗いて、在りもしない人情噺を見出そうとすべきではない。
あなたは私ではない。

——–引用ここまで——–

それに対する千々和さんの反論は、「短歌研究」五月号の特別寄稿「「作者の弁」という茶番―斉藤斎藤の質問に答える―」というものです。

——–引用ここから——–

本誌(引用者注:「短歌研究」)2月号の特集「わからない歌 どのように対決するか」にわたしが書いた「諧謔と韜晦」に、同誌3月号の「短歌時評」で斉藤斎藤が御門違いの異議を唱えている。見出しは「作品の背後を覗くな」といういかにも危なっかしい、誤解を招きやすいフレーズである。
もしもこのトーンで応ずるなら、「ならば作品を公表するな」、と言えばすむ。さらに「所詮は作者の弁という茶番だよ」、と言ってやればいい。
言うまでもなく作品は、公表された以上は読者のものだ。どんな読み方をされようと、作者に弁解の余地はない。読者の無知や誤解は問うところではない。無知は読者の誇りであり、誤解は読者の特権である。読者が作品を選ぶことは出来ても、作者は読者を選ぶことは出来ない。だから作品にはつねに運、不運がついて回る。
「作者の弁」にはどのみち弁解か韜晦しかない。弁解は自己肥大につながり、韜晦は逃避に逸れやすい。歌会などではしばしば作品の受容が「作者の弁」という大義によって、一つの読み方を強制されることがある。そこではまず作者の意図(作意)という唯一絶対神があって、そのご託宣に適った読み方だけが「正しい」とされ、逸れれば「間違い」だとして平伏させられる。読者の自由な想像力、自由な楽しみを縛るこの詩への思い上がりを茶番と呼ばずして何と呼ぼう。(略)
斉藤の言い分は添削によって自作が故意にねじ曲げられたというものだ。同情の余地はあるが、この作品が「わからない」とする読者はこのまま見過ごせないのだ。もしこのような作品が短歌の本流として罷り通るなら、自分たちが結社で営営と修練を重ねてきた短歌とはいったい何だったのか、という疑問と絶望感に苛まれるに違いないからだ。基本にある短歌観がまったく違うのだから、この議論はどこまで行っても不毛な平行線を辿る。
「自動販売機」の歌は、実はそんな専門歌人の結社での「習練」をコケにしたところがネウチだ、とわたしは読んだのだ。多くの専門歌人が金科玉条にしている「シリアスな主題と命を賭けて切り結」ばないところが、面白いのだ。ただしこの面白さ、他愛なさが単に風変りで終るのか、真にナンセンスな世界に突出し短歌に新たな領域を拓くかどうか、まだ評価は早かろう。(略)
短歌にデジタルもアナログもないのだ。口語であれ文語であれ、風景であれ背景であれ、事物であれ人間関係であれ、それをモンタージュと言おうがパッチワークと呼ぼうが、作品のネウチを最後に決めるのはそこに詩があるかどうかだ。(略)
詩として魅力があるか無いかを決めるのは、作者ではなく読者だ。作者はついに読者ではない。

——–引用ここまで——–

長い引用になりました。本当ならば「(略)」などなく、全文掲載したほうがお互いの主張がきちんと伝わるのでしょうが、さすがに煩雑ですし、これはあくまで僕が受容した議論の骨格なので、責任をもって(略)としたつもりです。

はい。なんとも不思議な議論だと思います。

忖度するに、千々和さんは、何処かで斉藤さんの作品に魅力を感じながら、けれど何処かその作品に不足な部分や過剰な部分があると思っていたのでしょう。そうでなければ、わざわざ専門歌人氏に依頼して、作品の「補強」をしたりしない筈ですから。けれども、そうした一方で、当の作者からの弁があると、それについては「弁解か韜晦」と言って、切って捨ててしまいます。本当はこれが議論や対話の発端だった筈なのに、そこで扉を閉ざしてしまうのは何故なのか、はたで見ている僕としては不思議でなりません。も一つ言えば、「無知は読者の誇りであり、誤解は読者の特権である」と「読者」の立場を高らかに宣言しながら、後続の文章を読んでいくと、千々和さんの立場は読者としての批評であるのか、短歌作者として同じ短歌作者である斉藤さんへの批評であるのかが、全く不分明になってしまうのは何故なのか、不思議です。つまり、「最後は巧みに身を躱し体を入れ替える」とは、千々和さんから斉藤さんへ向けた批評の言葉ですが、斉藤さんからの質問に対する千々和さんが、まさにそうしているように見えるのです。

だから、題名は「斉藤斎藤の質問に答える」というものでありながら、その質問にははっきりと答えていないように僕には思えるのです。斉藤さんの質問は、千々和さんが書かれているように「添削によって自作が故意にねじ曲げられた」というものに端を発しているのではなく、千々和さんのお知り合いの専門歌人氏の改作によって得られるもの、失われるものは、本質的に何であるのか、という問いだと思います。作品の背後に「物語性」を感取し、その「物語」に関わる「われ」を読み込むというような、「専門歌人的な読み」は何故可能であるのか、また、そのような従来の「読み」から脱却するためには、創作者の立場としてどのような方法を用いれば可能であるのか、というのが、斉藤さんの問いの本質なのでしょう。千々和さんは斉藤さんの反論を「御門違いの異議」と言っていますが、そうでしょうか? 異議ではなく、「あの作品をそう読む根拠は何ですか?」という質問なのではないのでしょうか。

斉藤さんの論においても、不思議な用語が使われています。「デジタル/アナログ」という語を説明無しに使っているのが、あるいは混乱の一因であるかもしれません。

・デジタル時計よろしく時刻はあっても時間はない(千々和)
・同じ場所の二つの時間の光景(斉藤)
・短歌にデジタルもアナログもないのだ(千々和)

最初にデジタル時計を表現方法への比喩に使ったのは千々和さんですが、斉藤さんが自らの作品における時間意識を「デジタル」と表現した途端、千々和さんからは「短歌にデジタルもアナログもない」という答えが返ってきてしまっています(そもそも「アナログ」の時計にだって「時間」は存在しないんだけどなぁ、なんていう僕の呟きは、更に混乱させるモトなので、括弧内の呟きにしておきます)。
文語表現と口語表現において一番異なるのは「時制」の多様さである、という認識が斉藤さんの「口語・文語」という言葉の背後にあり、それに呼応した言葉がデジタル/アナログなのではないでしょうか。それに対して短歌にデジタルもアナログもない、と言ってしまっては、議論の接ぎ穂がなくなってしまいます。この辺り、もう少し口語・文語の特徴を考えることから議論を再開したほうが良いのかもしれません。

僕が理解した限りにおいては、今回の議論は次のような問題に集約されるのではないでしょうか。

1.作品を解釈するために用いられる「われ」とは誰か?
2.近代から現代短歌へいたるまでに得られた「読み」のコードは現在も有効か?
3.口語短歌と文語短歌との間にある本質的な差異はなにか?

1の論点については、論の応酬のなかからは読み取りづらいものかもしれません。けれど「作品の背後」に読みこまれる「われ」は、それを読んでいる読者の「われ」ではないのかという点が、作中主体である「われ」を解釈する際のアポリアです。読まれるテキストは「われ」ではないけれど、そのテキストから解釈された「われ」は、それを解釈している「われ」ではないのか。「あなたは私ではない」という斉藤さんの言葉は、そうした「われ」の問題を指摘しているように思われます。

2の論点は、一度、斉藤さん・千々和さん・専門歌人氏の3名でじっくりと討議する場があったほうが良いのでしょう。斉藤さんの歌を伝統的・結社的な読みの文脈に変換する実力を持った方に、その読みの手法を含めて説明して貰えれば、読者にとっても勉強になるに違いありません。

3については、まるで今年の「短歌研究」の評論賞の課題「現代短歌の口語化がもたらしたもの、その功罪」のようですね。「ライトバースと綽名された軽口口語短歌」と一括される作品が、何故にあれほど受け入れられたのか、それを考えることは同時に、それまで「読者」を置き去りにしていた専門歌人達の功罪も含めて考える必要があるのではないか。専門歌人達にだけ受容される読みのコードによって、創作の場が先導されてはいなかったか、少し考えてみる必要があるのかもしれません。

はい。
この議論、まだ当の斉藤さんや千々和さんとの間で継続されるのかもしれませんから、僕としては、先に書いたような観点から注視していこうと思います。現在の短歌を考えるにあたって、鍵となる論点を含んだ議論だと思います。
くれぐれも、反論にやっきになって議論の本質を見失ったりしなければ良いなぁ、と思います。目上の意見を聞かない人に成長はありませんし、目下の意見に耳をかさない人に変化はありません。子供叱るな来た道だ、年寄り笑うな行く道だ、というのは議論においても肝に銘じておくべきことでしょう。激しく対立する議論の時ほど、小声で冷静に語る必要があります。