野球もサッカーもゴルフもよく解らないので、サラリーマン人生では愛想笑いを基本にしている大井です。女子サッカーで快挙!って言われても、「すごいですねぇ」とだけしか御付き合いの言葉を言えないので、すぐに「ところで」と話題を変えることにしています。その場合にも愛想笑いは有効なわけで。まあ、そんなマイノリティなサラリーマン生活もそれはそれで楽しいのですが。「楽しいリーマン生活」という言葉をどう解釈するのかにかかっているのかもしれませんが。
「解釈」と言えば(今も継続している企画ですからちょっとオフレコですが)、某雑誌の検定問題で「近現代短歌の解釈問題を作成下さい」という依頼がきたりします。はたと困ります。困るのです。何が困るか。「間違った解釈」をつくることがとても難しいのです。また同様の理由で「妥当な解釈」を提示することもとても難しいのです。
先日の「神変忌」の際に、塚本青史さんが父邦雄さんの歌を引きつつ、次のような話しをされていました。
目に見えぬ無数の脚が空中にもつれつつ旅客機が離陸せり 『日本人霊歌』
「目に見えぬ」の歌は中学校の教科書にも出てくる歌です。この歌を私の娘(つまりは塚本邦雄の孫になりますが)が教科書で読み、これはどういう意味かと聞いてきた。「そんなんお爺ちゃんに電話して聞いてみたら」というと、娘は「お爺ちゃんに電話するといろいろと面倒だから」と言って電話を掛けようとしない【この辺、歌人から見れば恐ろしく贅沢な話しなんですが、家人の立場を考えると解らなくもないですね】。
娘は「目に見えぬ無数の脚」とはどういうことか、と聞く。この詩句の解釈としては、飛行機に乗っている人達の脚が、まるで飛行機の機体を透して見えているかのように書いているというのが常識的に読める読み方の一つだと。ところが娘の解釈では、旅客機から怪獣のような脚が出ているが、それは目に見えぬものである、というのんと違うかなぁ、という。なるほどそういう読み方もあるのかなとも思ったわけです。また一首の歌としては、時代と個人というようなものの象徴として読むことも出来るだろう。無数の脚という言葉でそれぞれの事情を抱えた個人を、離陸する旅客機で、それら個々の事情を抱えこみながらも進んでいく社会や時代の比喩として捉えることもできるだろう。そこからすると前者の解釈のほうが妥当な感じがしてたんです。そこで「お爺ちゃん」【もちろん塚本邦雄さんです。なんと贅沢な!】に電話して聞いてみたところ、「目に見えぬ無数の脚」というのは、飛行機から怪獣のように透明な脚が出ているというイメージを抱いていたというんですね。なるほど娘の解釈も大きくは外れていなかったんだな、と思うと同時に、邦雄が亡くなってから七年、今後、こうしたいろいろな解釈が出て、それぞれの解釈が淘汰されながら次第に歌の解釈が出来あがっていくんでしょう。
青史さんの洒脱な話しを再現できるわけもなく、またいささか記憶もあいまいなうえに、端折っているので、これはあくまで僕が再構成した話しだと思って下さい(何か間違っていたらごめんなさい)。
というようなお話しだったかと思います。
また、永田和宏さんが「歌会においてはどのような解釈も否定されるべきではない。「正しい解釈」というものが限定されるような歌会は良い会ではない。新しい解釈が出てきたら、その根拠を虚心に聞くことが必要だ」というようなことを、雑誌に書かれていました。(すみません。この文章が書かれていたはずの雑誌を探したのですが、3・11以降、うちの文書室が菅政権のようなめちゃめちゃな状態で、いくら探しても見つからず、記憶だけで書いてますので、何か間違っていたらごめんなさい)。
少し古い話題になってしまいますが、「短歌研究」の2011年2月号の「わからない歌」についての特集では、歌人の皆さんからこんな意見が出されていました。
———-引用ここから———-
まず初めにわからない歌とはどんな歌のことをいうのか考えておく必要があるだろう。一読して何が言いたいのかわからない歌、読む側の知識不足で使われている用語や登場する人名などが理解できない歌、同じように本歌取りの本歌を知らないために読めない歌、一般によい歌として流通しているのだが個人的にはその良さがわからない歌などなど。(久々湊盈子)
———-引用ここまで———-
———-引用ここから———-
私は「わからない歌への対決」は避けている。判らないものは判らないのだ、自分の鑑賞力か歌自体が問題かは別として。気になったまま心の隅に眠らせておく。そして他の人の評を聞いたり読んだりしたときに、納得出来れば「わかった」と思い、そうでなければまた眠らせておく。(平山公一)
———-引用ここまで———-
———-引用ここから———-
わからない歌やわかりにくい歌というのはおおよそ歌意不詳が厄介なハードルになっている場合が多いのだろうと思う。どういう料簡でこんな歌をこさえたんだか、というモチーフに関わる謎は、まあ、異文化の謎と同じで、性急に対決したり裁断したりせず、いずれ自他の努力によって氷解する日が来るまでそっとしておくのがいい。(島田修三)
———-引用ここまで———-
———-引用ここから———-
云うまでもなく、わかるとは、創作意図がわかることである。(菊池裕)
———-引用ここまで———-
———-引用ここから———-
結局のところ「わからなさ」と「おもしろさ」は繋がっているのだろうと思う。(岡崎裕美子)
———-引用ここまで———-
———-引用ここから———-
わからない歌は判断保留にするのがいいと思う。別に今すぐわかる必要はない。わかるという人がいれば意見を聞きたい。(花山周子)
———-引用ここまで———-
こうして並べて見てみると、「わからない歌」については一旦判断保留とした上で、わかるときが来るまで待つ、という姿勢の方が多いようです。また「わかる」ということは、1)作品の意味として解ること、と、2)作歌の意図として解ること、の二つのことが言われているようです。
ただし、こう分類したからといって「わかる」という状態がどのようなものであるのか、ということは何処にも担保されていません。むしろそうした「わかる」や「わかった」ということが、同じ作品を読んだ他者と共通のものであるかどうかということが保証されていないことは、歌会などで他者の作品解釈を聞いた時に違和感を味わったことがある方ならば、すぐに了解されることでしょう。「何故この歌がそんな解釈になるんだろう」という感覚を。
歌の意味が「わかる」場合も、それぞれが「わかった」とする内容や、その歌の言葉から喚起されたイメージはまるでバラバラです。意図が「わかる」場合もそれは同様でしょう。作者の意図を読者が忖度するということは、結局は憶測の域を出ない。ここまでくると認識論的または解釈学的な問題が、詩歌の「わかる」場面に大きく立ちはだかってくることになります。
それでも多くの歌人は「わかるまで待つ」と言います。どういうことでしょうか? わたし待つわ、いつまでも待つわ、です。あ、年齢がバレますね。わからないものを無理に判断することなく、じっくり経過観察するというのは、ある意味、科学的な態度であるともいえるでしょう。あるいはこのような「待ち」の状態は、該当の「わからない歌」をわかるための「解釈のコード」や文脈を探している、探査の時間なのかもしれません。
また、たとえばここで「そもそも「詩」とは「わかる」ものなのか、意味として解釈できるもののなかに「詩」はあるのか」という、不可知論的な詩歌の定義をふりかざしてもあまり意味はないでしょう。「詩性は不可知のなかに宿る」なんて力んでみせるのは、詩を現実世界において、ひいては人生において無効化するための定義でしかないように思います。現実と離れて「藝術」は存在しないでしょうし、人間の言葉を離れて詩は存在しないでしょうから。
いや。むしろこうした「わかる」「わからない」の狭間は、秀逸な歌を産むための空隙であると同時に、凡庸でつまらない歌の産出地でもあるような気がするのです。「こんなわかりきったこと書かなくてもいい」「こういう歌は類歌がたくさんあって新鮮味がない」という批評を、僕もしますし、よく耳にもします。けれど、「わかる」と「わからない」との狭間を探りながら作品を書いていくことが、一人の作者にとっての詩の地平を広げることであって、同時に詩にとっての地平を広げることにもなるのでしょう。わたしとあなたとの知が、およそまだらにちがうように、何がわかっていて、何がわかっていないのか、それはわたしとあなたとの対話においてしか知ることができない。詩を読む・詠むのは、そうした知の範囲の違いを知ることで、みずからの知の限界を知り、同時にその限界を超える瞬間が現出するからではないのでしょうか。
大震災以降、続々と発表される地震や被災の歌、原発の歌、どれもが「わかっている」歌でありながら、それでもなお歌われるのは、それぞれの知の限界が拡がっているためなのでしょう。もちろん、既知の事実だけを歌っているような作品について、それを発表するのかどうか、それはその作者の覚悟の問題もあるでしょうし、また読者の覚悟も必要です。
そうした詩についての「解釈」は、何が正しく、何が間違っているのか。何が不当で何が妥当なのか。「一般的に正しいと思われている」ものを示すのは、例えば「歌人へのアンケート」でもとってみれば多数意見のようなものは抽出できるかもしれません。では誤った解釈は? やっぱり「それは間違いだ」と明確に断言できるのは、よほどの蛮勇のような感じがするのです。
「けれどそれは「わかって」いるのか?」そう問うことが、詩の解釈の場面においては必要なことなのでしょう。その「詩」を僕はわかっているのか。既知と思われる言葉にであったとき、そう問い直さなければいけないのでしょう。解ったと思った瞬間にはその理解は逃げ、解らないと思った途端に新たな解釈の地平が開けるようなもの、それが詩なのかもしれない。凡庸の中にある一粒の光りを、砂金を探すように言葉の比重を見極めること。
「解釈」はなかなか骨が折れる作業ですね。