adolesco

風呂上りにシーブリーズをバシャバシャふりかけたら「あ、寒い」と思うようになったので、もう秋なんですね。大井です。

夏涸れとはよくいったもので何を書こうかと案じているうちに、すっかり時間が経ってしまって、もう今日で八月もお終いです。八月はお盆やら夏休みやらで、あまり短歌のイベントごともないですし、結社の大会などは八月の後半の土日あたりに集中してますから、どうしてもネタがなくなるんですよね。

 

御多聞に漏れず、僕が所属する結社でもミーティングなんかがあって、諸般の事情からインターネット中継(「その模様を動画で見れます」と宣伝したり)してたので、このブログ時評担当のタカハシさんが呆れるほど遅い更新になってしまいました。すみません。

 

さて、こういう光に満ちた夏の季節には、みずみずしい若手女性歌人の歌集を読んでみましょう(この発想がすでにオッサンですね)。

 

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壁一面の世界地図ある部屋にいて巡りつづける風を迎える

わたくしも子を産めるのと天蓋をゆたかに開くグランドピアノ

図書館の本棚の前に来て立てばわれのうちなる誰かも立てり

青春と呼ばれる日々はいつのまにか終わってしまい川沿いをゆく

『さくら』という母の歌集にぽっとりと春のよだれを垂らしてしまう

楽器など何ひとつ弾けぬてのひらに集まりやすしゆうべの風は

          小島なお『サリンジャーは死んでしまった』

 

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小島なおさんの第二歌集『サリンジャーは死んでしまった』から引用しました。ルーズソックスが似合いそうだった小島なおさんが、「青春の終り」を歌うなんていささかショックなんだけれど、第二歌集であってみれば、それも仕方がないのかもしれません。十代の感性を確かな定型意識のなかに歌いおさめていた小島さんの、その後の歌作の充実がこうした作品として結実しているのでしょう。けれど「いつのまにか終わってしまい」という言葉の底に、継続していく時間の流れ、「巡りつづける風」を意識している「われ」がいて、その意識がこれらの作品世界の基礎になっているようでもあります。僕の頭のなかには久しぶりにadolescenceという英単語と、その源のadolescoというラテン語の単語が思い出されました。adolescoとは、成長する、増殖する、強くなる、堅固になるという程の意味です。転じて成長すること、成人したばかりの、若い、青年の、という意味となり、adolescenceは、だから青春時代のことです。(「森田公一とトップギャラン」というグループ名を思い出したら、それは完全にオッサンですね。)

二首目の歌は、上句の科白的な言葉がふと途切れた時、意味的な句切れを感じて読んだほうが良いでしょうか。演劇的なワンシーンの描写のようでもあり、また上句の科白を語っている主体を「グランドピアノ」として擬人的に理解する読みも可能かもしれません。韻律的な充足が多様な読みを引き出してくるのは、読者にとっての楽しみでもあります。今回の歌集では、終り近くに「2011年3月」という一聯もあり、時代に呼応しながら創作していこうという思いを読み取ることもできます。

 

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超新星爆発はるかゆたかなる春一番が海わたるとき

八月の森を歩めばいま満ちる合唱のまえの静寂のおと

屋上より舞い落ちてくる紙屑をわけもわからず拾おうとする

台風や稲妻や虹を待つこころどれも豊かで孤独なこころ

森にきて夕立を待つこころとは初めてきみに逢いし日のこころ

 

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けれどそれ以上に顕著に感じられるのは、これら五首の歌にも見られるような「次へ」を期待する心の在り方でしょうか。「超新星爆発」も「春一番」も、実際はただならぬ事態です。そうした危機に満ちた時を「海わたるとき」という大きな景のなかで捉える。「合唱のまえの静寂のおと」を、さわだつ静寂を感じている。「次の瞬間へ」こころが向い、そこに意識が集まることで、尖鋭化していく「われ」の存在があります。「待つこころ」が「豊かで孤独」なのは、だから「われ」のこころの緊張が生み出す必然の状態でしょう。そうした心のありようを意識し、自らの姿を描き出すことで、また「われ」は成長していくのかもしれません。

 

 

さて、少し前になってしまいましたが、雪舟えまさんの歌集『たんぽるぽる』が今年の四月に上梓されています。あるいは雪舟さんの名前は、穂村弘さんの歌集の、いわばミューズとして御存知の方もいらっしゃるかもしれません。

 

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「殺虫剤ばんばん浴びて死んだから魂の引取り手がないの」

氷からまみは生まれた。先生の星、すごく速く回るのね、大すき。

吐く。ことの 震え。ることの 泣き。ながらウエイトレスは懺悔。をしない

東京のカタツムリってでっかくて、渦、キモチワルキレイ、熱帯!

          穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 

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こうした穂村さんの作品も、すでに懐かしく思われるほどですが、『たんぽるぽる』は「一九九六年~二〇一〇年の作品から選んだ」ということですから、十五年近くの時間を内包した作品群ということになるのでしょう。

 

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開会の言葉のあと、ホリゾントに黄緑を上げる。

舞台への登場の場面から観客に見せる。

場についたらサス点灯。

袖からア・カペラで歌いながら登場。

歌い終わりでサス追加。

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これ。なんのことか。

雪舟えまさんが「マラソン・リーディング2003」に登場したときの舞台演出の台本です。秋月祐一さんがまとめて、僕もちょっとお手伝いした舞台でした。雪舟さんは、フリードリヒ・フォン・シラーの、あのベートーヴェンの第九交響曲で有名な “An die Freude” を独自に翻案した詩を、風のようなウィスパー・ヴォイスで朗読していました。台本を見ると、ベートーヴェンがシラーの詩に付け加えた詩句の部分から翻案してあります。(森進一は川内康範の詩に勝手に自分の詩句を付け加えたといって叱られてましたが、ベートーヴェンが第九を書きあげた時にはシラーはすでにElysiumの住人だったのでしたね。あ、関係ないですね。)

 

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とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ

美容師の指からこの星にはない海の香気が舞い降りてくる

ふと「死ね」と聞こえたようで聞きかえすおやすみなさいの電話の中に

すきになる? 何を こういうことすべて 自信をもってまちがえる道

たこ焼き屋の手さばきガラスにくっついて見ている 恋がかなわないの

かたつむりって炎なんだね春雷があたしを指名するから行くね

人類へある朝傘が降ってきてみんなとっても似合っているわ

おはじきを水にいれたらおはじき水 ふたつの姓のあいだで遊ぶ

体には心そそがれボタン押すゆびのさきまで心は満ちる

          雪舟えま『たんぽるぽる』

 

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雪舟さんの、こうした作品に附箋しながら一冊を読んでいました。新鮮さを感じながら、個々の作品においては近代短歌から続く伝統的な感性に接続するものを包含しているようにも思われます。それは「今ここにあることの慄き」であったり、人間の底にある悪意であったり、あるいは身体と心との違和・宥和の感覚、恋の不如意であったり。換言してみればそうした題材が、現在の口語で歌いとめられているからでしょう。

けれど同時に、何か異なるものを感じてしまうのです。小島なおさんの歌集と雪舟えまさんの歌集を読んだ時の感覚のなかに、何か異なるものがあるように思われるのです。

それを「小島さんと雪舟さんの個性の違い」として単純化することはできないのではないでしょうか。小島さんの作品が近代・現代短歌の伝統に即して在るのに対して、雪舟さんの作品は、その流れだけでは説明がつかないような感じがするのです。

 

あるいはそれは「作者モデル」の違いなのかもしれません。人生のステージに応じた成長が人間にはあり、歌人も短歌作品の作中主体の「われ」も、その時々に応じて成長していく。そうした動きのなかにある人間が、歌い、歌われることで成り立っていた「短歌」の世界に、「作者モデル」が異なる作品が出てきているのではないのか。ライフステージに応じて成長、深化する人間の姿を前提としない、だから、「年相応の」などという言葉が意味をなさない作品群があり、そうした作品や作者を捉えるための概念が、いまだ生み出されていないのかもしれません。

こうしたことを言うと「それは短歌の口語化による問題ではないのか」という疑問も湧いてきます。確かに、小島さんと雪舟さんの作品を較べてみると、小島さんのほうが文語脈を感じさせる口語になっているようです。口語脈を多用するか、文語脈に拠るのかによって「成長」という感覚も異なるのではないか、ということもできるかもしれません。確かにそうでしょう。年齢に応じた言葉使いというものがあり、男性の場合、俺・僕から、わたし、わたくし、われ、わし、へと成長するということもできるかもしれない。いや、それはすでに前衛短歌が「われ=作者」という構造を破壊したのだから、その当然の帰結にほかならないじゃないか、ということもできそうです。けれどもまた一方で、次のような議論も思い起こされるのです。

 

 

———-引用ここから———-

 

一つの方法論で何でもみえるのではなくてその方法論の範囲でしか見えぬということを先ず肝に命ずべきであります。例をあげると明星派の方法論ではみえなかった感動の世界がアララギの方法論で見えるようになった。これは事実です。明星派の方法論だけの明治初期にアララギの方法論でみえる世界が存在しなかったのではありません。弓矢で合戦している時代でもその世界は存在していたわけでありますが見えてこなかった。新らしい方法論によって発見されたのであります。これをよく考えていただきたい。現代短歌の世界が素材に関しては戦後に領域が拡大されたことは事実です。だが素材の領域拡大をすぐに短歌の世界の新しい眼がひらけたと勘ちがいしている人があるならとんでもないおめでたい人だ。アララギの方法論はもう安定したものであるからその方法論でみえる世界は楽な世界であり、古い世界であるということが出来ます。(略)

アララギの方法論でみえない世界は私の周囲をとりまいております。いかに生きるかという価値観の世界にふみ入るならば(略)そこに出来合いの方法論ではどうしても間にあわぬもどかしさを感じました。それは自分がこの方法論に未熟練のせいではないかといく度反省し疑ったか知れません。しかし方法というものはもっと本質的なものであると思います。異質の眼です。新しい認識のワクです。

     岡部桂一郎「病間録―ある夜わが影に向って行った、じめじめした演説―」

 

———-引用ここまで———-

 

つまりある表現方法には、その方法によって可能となる内容があり、逆にその方法によって不可能となる内容もある、ということになります。岡部さんのこうした考え方を補助線として考えるとどうでしょう。

現在の「口語化」の問題は、誰も「論」として立ててはいません。だから論のなき方法として短歌の世界へ次第に拡がっているわけですが、実際それは新しい方法論なのではないのでしょうか。従来型の方法では表現不可能なものを盛るための器として「口語」が方法論として要請されているとしたら。いままでは見過ごされてきた、感性を「短歌」という型式に盛るための方法として口語があり、その口語を限界ギリギリまで利用することで表現可能となる感性がある、と。

あるいはそれはこれまで子供っぽいとか、「幼児性」やファンタジー的な、という批評語で語られてきたのかもしれません。つまりは「成長する人間」のモデルからは零れてしまう感性というようなものだったということでしょう。そうした、誰しもの心の中にか細く息づいている感性も「口語」という方法によって掬い取ることが可能になったのではないのか。そんな気がしているのです。誰かがそれを方法論として定式化し、それによって可能となった「感動の世界」を論理化する必要があるのではないでしょうか。

 

無論、伝統的な方法によって表現できるものは、まだまだ多様なのですから、そこに繋がることがダメというわけでもなければ、零れた感性を掬いあげることが歌人にとっての喫緊の課題だなど、というわけではありません。どちらに価値があるのか、などという議論はするべくもありませんしね。

 

あ、ベランダで蝉がなきだしました。台風が接近してきているそうですね。朝の風が爽やかです。