歌を残すために

年末年始、2011年を振り返るなかに早くも「風化」という言葉があって、あぜんとした。マスメディアによる3月11日の東日本大震災に関わる文脈で、である。なんなんやろ、自分たちが震災を素材として消費し尽くした、そういう感覚の露呈なんやろかね、とでも考え気持ちをなだめておくことにする。さまざまな表現分野においても、あの震災が素材として、或いは空気感を共有するための場として使われ、消費されることがなかったろうか。

 短歌は昔から、他ジャンルよりもこういう出来事への感度が高い。五七五七七のいわゆる黄金の韻律が、社会や民衆に即応的かつ共振的に働くのだろうか。今回も震災発生直後から、プロ歌人、投稿歌人、趣味程度の素人までなだれるように震災の歌を詠んだ。直接に揺れや津波の被害を被った人たちの、命をつなぐのが精一杯の状況下からの詠草もたくさんあった。

 そんななかで、俳人の長谷川櫂がいちはやく書き下ろし出版した『震災歌集』が、話題を呼んだ。私はこの歌集を読んでいない。しかし、俳人が句集でなく歌集を編み、震災から何ヶ月も経ないうちに大手出版社から出版し、その印税を被災地に寄付する、という表現活動の在り方を、自分のなかでうまく受け止められないでいる。日ごろ短詩型に接することのない人にも、大新聞の俳句の選者をしている有名な俳人が緊急出版した歌集は、充分にインパクトがある。購入することが被災地支援につながるとなれば、積極的に買うかもしれない。誰もが被災地のために何かしたくて、いてもたってもいられない時期であった。 だが、と言うか、だからこそ、と言おうか、私は長谷川のこの一連の行動を、表現者の情動によるやむにやまれぬ表現活動、とは捉えられないのである。詩型のもつ即応性がともすればたやすく消費につながる、ということを、この詩型に携わる者は常に頭に置いておかなくていいのだろうか。一方で、この詩型の即応性こそがその場その瞬間の言葉を摑ませ得る、という思いもあるにはあって揺れ動いている自分ではあるのだが。

 

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 この『震災歌集』に対し鋭く疑問を呈しているのが「短歌往来」12月号「大震災と詩歌を語る」の松本健一と松村正直の対談で、読み応えがあった。ここで松本は、〈短歌が記憶する装置であるとするならば、それが記憶されたところでもう一度揺り戻しがくると。そこのところで私は短歌は力が出せるんじゃないかと思うんですね〉とも言い、松村正直も、〈僕も瞬発力ということではなくて、もっと持続的なかたちで出て来るのかなと思います〉と応じている。もっともな見解だと思う。

 あくまで私の印象だが、被災地でない地で震災を歌に詠む、ということに関しては、比較的若い世代に自制的な間があったように思う。総じて熟年、老年世代の方に性急さを感じることが多かった。この印象は、そもそも若い世代には歌の発表の場、機会自体が少ないという露出度の問題から来るに過ぎないのかもしれないが、それにしても上の世代は、この震災をどう詠むかどう歌うか、ということの方に体重がかかり過ぎているのではないだろうか。

 その点で、花山周子が「歌壇」8月号と11月号の2度にわたって書いた時評が、良かった。震災の歌を「どう詠むか」ではなく「どう読むか」という視点から論じている。〈今回の震災が教科書に載るような事実としては残ったとしても、また詠まれた作品の状況把握はできたとしても、私たちがそこに無意識に汲み取っている、同じ今を共有しているという感覚はやがて損なわれる。私は短歌の一読者として、そのことを強く意識することで、避けていきたいと思った〉と書き、〈忘れるということを前提に何度でも思い出す〉という〈長いスパンでの読み〉の大切さを説いている。吉川宏志も「歌壇」11月号の鼎談や角川「短歌年鑑」で、〈まず、他者の歌を聴く(読む)ということが大事かな、という気はします〉、〈…テレビを見て、津波を描写するとか、何かにたとえるといった歌は、いっさい作らなかった。自分でそのような歌を作るより、実際に震災を体験した人の歌を読むほうが重要だと思った〉と言い、〈今回の震災は、ことに原発なんて、五年十年不安を抱えつつ生きていくわけでしょう。どうなっていくか分からない。だから、長いスパンで見ていったほうがいいのではないか〉と述べている。松村、花山、吉川ら若い歌人がたまたま私と同結社だから持ち上げているわけでは決してない。事あるごとに「どう詠むか」ばかりが性急に競われる短歌界への真っ当な問いを、これらの言論に見出したのである。

 

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 震災の歌を「どう読むか」。長いスパンで読むことの大切さのなかには、読む側にも「時間」によってもたらされるものを待つ必要がある、ということが含まれるのではないか。震災後に締め切り選考された「短歌研究新人賞」と「角川短歌賞」は、順に馬場めぐみと立花開という若い女性が受賞を決めた。馬場の作品には〈切迫感がまず印象的/栗木京子〉、〈希望と絶望の絶対値の大きさというものが非常に魅力的/穂村弘〉といった評言があり、立花の作品には〈これが一番のっぴきならないもの、ひりひりするようなものを感覚で捕まえている/島田修三〉、〈生々しくて痛々しい感じが非常に印象的/米川千嘉子〉といったところが評価されている。それぞれに、歌として貴重な魅力をたたえているに違いない。しかしながらその時そこに、読む側の「切実さ」や「ぎりぎりの希望」、「痛々しさ」というものを見出したいという願望はなかっただろうか。両者の作品とも震災の歌ではなかったが、読む側にもまだ震災後の「時間」が希望と絶望をないまぜに震えていて、以前のようには流れてくれない時期であったろう(今だって、ずっと、そうなのだが)。読み手の心情が読みに反映されるのもまた、短歌である。馬場の作品に対するこうした読みに、佐佐木幸綱が〈詩の言葉の客観的な読みというよりも、読者が迎えて読む読みのような気がする〉と言っているのが突いている。それが悪いと言いたいのではなく、受賞者の作品とこれからを今後長い目で見ていく必要があるのではないか、と言いたいのである。

 こういう時にはどんな表現も、そのジャンルをジャンルたらしめている技術への評価が抜け落ちる。臨場感、肉声感、切実感といったもののインパクトの強さが、どうしても読む者の心をとらえてしまう。それはそれでしっかり感受しながら、今の段階で自分なりの読みを試み評価し、また時間をかけてそれを更新していく。同時に、何でもないような歌も歌として大切に丁寧に読みを重ねていく。短歌が短歌ならではの表現をこつこつと積み上げていこうとすることまで、挫折させてはならないのだと思う。震災の歌をきちんと残していくためにも。

 

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【コラム初回にあたって…】

山に住んでいると、雨の日のぼうっと霞んでひろがる雲のなかでよくもの思いしてしまう。刻々といつもの山が風貌を変えていく。同じ見え方は一度もない。