最近ようやく「リア充」という言葉を覚えた。リアル(現実)が充実している、という意味だそうだが、最初若い知人が連発していた時には、シェークスピア絡みの漫画のタイトルかキャラか、と思って訊いていてさっぱり話がわからなかった。教えてもらってなるほどなあ、ではあるが、自分の使用言語にはなりそうにない。わざわざ「リアル」とことわって言う必要性が思い当たらないのだ。そういう必要性がある、という人々と私はうまくつながれない、ということになる。言葉はコミュニケーションを隔てる方向にも働く、ということが興味深い。
IT技術がコミュニケーションの形態を激変させつつあるせいだろうか、ネットの書き込みや若い人の会話には他にも私に未知な言葉がたくさんあって、なおかつどんどん生まれている感じだ。思い返せば若者言葉にはいつの時代もそんな感じがある。短歌の世界でも見かけるようになった。実際に出席した歌会で出たのは、「テンプレ」。「テンプレート」の略だそうだから、既存の言い方で言うところの形式的、類型的、とか、型にはまった、お定まりの表現、といったところか。この既存の言い方では言い果たせない、もっと何かメカ的な、システムに乗っ取られている的(?)なニュアンスを含むのかもしれない。こんな若い人たちの新鮮な用語を使った比喩の巧みさ、軽快さには、しばしば感心する。歌の評自体の面白さが、場を弾ませワクワクさせることにもなる。
しかしながら、人がつくる場でのこうした巧さはコメントの巧さに近いのではないか、とも思う。コメントにも批評や論評の意味はあるが、私は批評とは違うニュアンスを抱いている。批評は対作品、対作者に向き合っているのに対し、コメントは聴衆や視聴者といった第三者も視野に入ってくる。こうなった場合、人はなんとかして、うまいこと言いたい、と思ったりするものではないか。うまいこと言える人にうまいこと言うな、というつもりはまるでない。五十歳近くになっても、うまいこと言えたと思えたことが一度もない私には、そういう人が羨ましい。しかしながら、その巧みさが、肝心の作品や作者を置き去りにする場合もあるのではないか、ということをちらっと思う。それが、世代や文化が違えば実感できない用語でもってなされる場合には、ことさらに。
一首一首の歌を座で読み合い、表現や文体をさまざまに鑑賞し評価する歌会から私が持ち帰るのは、歌を評した人々の、あの口ごもった時間、言葉を探し探し言い直し言い換える表情、拙いけれど何かに打たれたように出て来た断片的な言葉、それらのさまざまな感触と、その反応を引き起こした歌を、ああ、あそこにあの歌の良さがあったのか、と思い返し膨らませることができる時間である。人というのは、実に複雑ななまものとして全体的なコミュニケーションをはかっているのだな、と改めて思う。
*
穂村 若い人は、もう固まったものとして見ていますね。世界全体もそう見ているし、もっと狭い歌壇なら歌壇のシステムも固まったものとして見ていて。だから選考委員は選考委員で、でもべつに尊敬しているわけではないんだけど、彼らはだめだとかそういうふうに言うわけでもなく、システムとして、あの人たちは選ぶ人、僕たちは選ばれる人みたいに割と素直に思っている。そこで、じゃあ、なぜ偉いとされている者たちがだめかを証明しようというふうにはあまり動き出さない。
『短歌研究』2011年12月号の座談会「2011年歌壇展望」における穂村弘の発言である。〈読み手と書き手の距離、けんかのすすめ〉と題された章で、佐佐木幸綱が「…最近気になるのは、ベテランと若い人との距離が、それは当然あるわけだけど、距離がますます広がってきている気がしています。その間の架け橋がない。お互いに自分たちだけで批評し合うわけですね。仲間のものだけを読む。そして、仲間の作の読みを絶対視して普遍的な読みを認めない。そういう形が出てきているような感じがします。…」といった内容を含む発言で口火を切る。最後の方の穂村のこの発言が状況を言い表しているのではないかと思い、引いた。若い人たちの「固まったシステム」に対する「尊敬」でもない「割と素直」な感じは、システム的な恩恵以上は何も期待していない、ということなのかもしれない。これには、「偉いとされている者」たちにも原因がないわけではない、とも思う。以下は、例えば、として書く。
角川『短歌年鑑 平成24年版』の座談会「今年の秀歌集10冊を決める」では馬場あき子、栗木京子、穂村弘、大松達知の四人が、一年間に出された歌集からアンケート等で選ばれた歌集を討議しながら、秀歌集10冊を決めていった。そもそもが歌集の出版も手がける出版社による企画だから100%フェアでないのは承知の上。そういうところを抜きにすれば、座談はおおむね各々の「読み」や短歌観が闊達にぶつけられていていろんな意味で興味深かったのだが、ところどころに感触のよろしくない感じがあった。座談全体の流れのなかからある部分だけを取り出すのはそれこそフェアじゃないかもしれないが、例示しなければ何の話かわからない。
馬場 第二歌集くらいまでは天然かと思っていたけど、どうも天然ではないのよ、この人。
穂村 本人の印象にだまされてた(笑)。
栗木 最近、私、それに気がついた。
…花山多佳子『胡瓜草』について
花山の歌の独特のユーモアについて、天然なのか緻密な計算に基づいているのか、作品を読み解きながらあれこれはかっている。表現の綾とか技巧に関する議論として終わってくれれば良かったのだが、「本人の印象」云々は余分であろう。読者がみんな花山の人となりを知っているわけではない。作品とは関係のない人物への印象が操作されてしまう。
馬場 だけど、「中部短歌」にこの人がいなかったら困るでしょ。
栗木 ええ、中部地方は島田修三だけでは困る、みたいな感じ(笑)。
…大塚寅彦『夢何有郷』について
大塚の師である春日井建の作風をどう受け継いでいるか、中年男性の本性を(ここまで)隠さず言っていいか、歌集中の一首の〈けふ午後のモカ珈琲やわがうちの小さき闇を映し香れり〉は寺山修司みたい、という流れに突然このやりとりがさし挟まれる。中部地方や島田修三は何の関係があるのだろうか。
穂村 この大きさ、伝わらないのかなあ。世界へのチャンネルが開いていて、全く逆の歌なんだけど。うーん、困りましたねえ。
馬場 若い二人が最高級に「歴史を変える歌集だ」と言うんだから、いいんじゃないの。
…雪舟えま『たんぽるぽる』について
雪舟の歌集について。穂村と大松が「歴史を変える歌集だ」と推し、作品をあげてはその読みと評価を語るのだが、馬場には最後までその良さがわからない。最終的に馬場が譲るかたちで10冊に入る。自分にははかり知れない何かがあると認めて譲るのではなく、穂村と大松に譲ったように見える。否定するよりも扱いとして軽い。
つまるところ、これは楽屋トークとして読めばいいのかな、と思うに至る…。ここ最近テレビでは、芸人が芸をするのではなくそのプライバシーや内輪の暴露話、或いはメークを落としたスッピン顔を見せる、といった楽屋トーク的な番組が増えており、それらに感触が近いのだ。楽屋トークならではの「本音」を覗き見した感覚で楽しめばいいのかもしれないし、本来ならオフレコの部分がオープンになってきた、そういう全体的な傾向もあるだろう。こうして揚げ足をとるように言い立てても、何も建設的なことにならないのはわかっている。しかし、テレビの楽屋トークが結局は内輪以外の他者に排他的で視聴者を置き去りにしてしまうように、選考における楽屋トークがそうなりはしないか…。勝手にやって下さいもう何も期待しませんから、と言われても仕方のない部分があるように思うのだった。
*
ものすごくレベルの低い話になった。自分にぜーんぶはね返ってきて寝込む。批評するなら全力ですべし。リアクションは気にするな。歌の前ではいつも謙虚でいたい。これからいろんな歌集を読んでいければ、と思う。