藤原 龍一郎


クラウン伍長に花束を!

 福岡にある書肆侃侃房から新鋭短歌シリーズと題して、若手歌人の第一歌集のシリーズが刊行され始めた。この出版社は、2009年に26歳で惜しまれつつ世を去った笹井宏之の第一歌集『ひとさらい』の版元であり、笹井の第二歌集『てんとろり』も刊行している。笹井宏之の歌集の刊行に尽力した加藤治郎と東直子が、このシリーズの監修者となっている。この二人の監修者が注目した若手の歌人の歌集と言うことであれば、質的には信頼できる。また、書肆侃侃房としても、笹井宏之の歌集の刊行経験から、若い歌人のつくる短歌の文芸的な価値を認識してくれているのであればうれしいし、それらの歌集の刊行が、ビジネスとしても採算がとれるノウハウをも獲得しているということなら、なおさらのぞましいことに思える。

 八月末の段階では、木下龍也歌集『つむじ風、ここにあります』、鯨井可菜子歌集『タンジブル』、堀合昌平歌集『提案前夜』、笹井宏之歌集『八月のフルート奏者』(この歌集のみ第三歌集。)、天道なお歌集『NR』、斉藤真伸歌集『クラウン伍長』の6冊が刊行されている。すでに書評も出始めているが、ここでは斉藤真伸の『クラウン伍長』に関しての読後感を書いてみようと思う。

 

 斉藤真伸は1971年生まれ。「みぎわ」に所属する。一時、「未来」の加藤治郎選歌欄「彗星集」で名前を見ていたので、「未来」にも所属していると思っていたが、現在はすでに「未来」は退会して、「みぎわ」に専念しているということである。ちょうど届いたばかりの「みぎわ」9月号を開いてみると、斉藤真伸は短歌時評を書き、編集後記にも名をつらねているので、「みぎわ」の編集の中核を担っているということだろう。

 新鋭短歌シリーズのラインナップの中から、斉藤真伸の『クラウン伍長』に関して、感想を書きたいと思ったのは、やはり、以前から読ませていただいていた「みぎわ」誌上で、斉藤真伸の名前になじみがあったことと、誌上での作品や文章の活動に、期待と共感をもっていたからなのだと思う。かつて、「みぎわ」に連載していた三井甲之論は、きわめて実証的な内容であったし、現在も連載中の短歌時評は、短歌の現在のみに限らず、現代芸術からサブカルチャー全般にまで目配りが効いており、いつも示唆に富み、刺激的な内容である。短歌作品もエスプリが効果的にきらめきつつ、根底には苦味もあり、ここ何年か、早く歌集にまとまらないかと、心待ちにしていた一巻であった。

 まず『クラウン伍長』というタイトルが私には響く。固有名詞であり、記憶に残る。歌集の題名は、何より読者の記憶に残ることがいちばんである。そういう題名を選択できるかどうかも、歌人の才能のうちであるのは言うまでもない。出典は「機動戦士ガンダム」なので、知っている人は知っている。いちおう、斉藤真伸も読者に気をつかって、歌集の26ページに注がついているので、それを写しておく。

 「クラウン伍長…「機動戦士ガンダム」の登場人物。主人公が地球の大気圏に突入した際に襲いかかってきた敵軍の一員。乗機が大気圏突入時の熱に耐えきれず、燃え尽きる。」とある。つまり、ドラマチックに討ち死にした仇役という人物。伍長という下士官の階級もせつなさを感じさせる。私たち、上の世代の感覚でおきかえてみれば、「鉄腕アトム」の「火星探検の巻」で、仇役ながら、最後に身を捨てて地球を救うケチャップ大尉といったところだろうか。まあ、これもわかる人にしかわからないが……。

 

 歌集『クラウン伍長』は二部構成になっている。一部、二部ともに1ページ4首組み。収録作は各400首を超えている。いまどき珍しいボリュームであるが、その過剰さも、斉藤真伸の自負にちがいないと思えば、たのもしい。まず、その第一部の作品から、印象に残ったものを引いてみる。

 

・小雨ふる葉山の浜に眺めいるペットボトルの補陀落渡海

・デニーズをひとつ過ぎれば夕暮れのすべての海は死者たちのもの

・量子宇宙理論を超えて深遠な真理説くらしパチンコ雑誌

・腹立ちに携帯折ればバッテリは秋刀魚を凌ぐうまそうないろ

・「豚カルビはじめました」の貼紙が達筆なればいよいよ悲し

・郷土史にその名なけれど甲斐のひと説教強盗妻木松吉

 

 一見すると、一首のドラマの構成が、笹公人の作品に似ているような気もするが、よく読むと、笹よりも歌に流れる苦味が濃いと思える。

 一首目と二首目は「補陀落渡海」と題された同じ一連にあり、あいだに「肉球を潮に濡らして老犬は突堤の上のわれに寄り来る」という歌をはさんで並んでいるので、組み合わせて読んでもよいだろう。ペットボトルが補陀落へ渡海するイリュージョンは、滑稽味があるが、そこに「すべての海は死者たちのもの」という詩的認識を重ねると、東日本大震災時の津波の恐怖をもふくめて、鎮魂の思いが流れていることは読者も感受できる。歌集の冒頭の一連として、この「補陀落渡海」が置かれているのも、当然、作者の意思が働いているわけである。

 量子宇宙理論の歌は、パチンコ雑誌を読んだことがある者なら苦笑せざるをえないだろう。競馬雑誌もふくめて、この手のギャンブル必勝法には、まさに深遠な疑似科学的な方法から、サイキックなものまで、さまざまな必勝理論が並んでいる。しかも、その記事を読むと、「もしかすると、この理論で勝てるかもしれない」と一瞬、気の迷いがおこってしまうところも情けないのだが。斉藤真伸も、おそらくはそんな気の迷いの経験者にちがいない。

 激怒して携帯電話を折ったり、叩きつけたりしたことがある人はいるかもしれない。折れてバッテリをさらけだすのは、いわゆるガラケーという古いタイプだろう。確かに断線した金属線やバッテリの形状は、はらわたをさらした秋刀魚に似ている。そういうものをはっきり見たわけではないが、似ていてうまそうだと言われれば、そんな気がする。こういう一瞬のイメージのとらえかたが巧い。つまりは短歌という詩形における、言葉の描写力をわがものにしているということなのだ。

 次の「豚カルビはじめました」の歌は、日常の中の違和感をピックアップする視点の面白さ。安易な共感に媚びる「あるある歌」に堕しそうなところを、「達筆なれば」という観察による限定で救っている。

 「説教強盗妻木松吉」の歌は、以前に「みぎわ」作品の批評を書かせてもらったときに、一度、言及した記憶がある。偉人は郷土史に記されるが、犯罪者はいかに高名であっても正史からは抹殺されるという批評意識を賞賛したと思う。歌集の中の一首としてあらためて読んでも、この歌のエスプリはきわだっている。こういう歌に次々に出会えることで、作者に対する信頼感は増加する。新人の第一歌集を読むたのしみは、そういうところにあるのではないか。

 

・たったひとつのやりかたとしてその夫のあたま撃ち抜くアリス・B・シェルドン

・一九九九年七月号だけ欠けている「ムー」十年分お譲りします

・凍て空の流星群にまぎれつつクラウン伍長の火葬はつづく

・ポストにはビラの貼跡ただいちど赤尾敏を見たことがある

・見え透いた善意はよせよ葦原に沈んでいったチャーリー・ゴードン

・戦争の身代わりとして姿見が廊下のはしの夕闇に立つ

・グラビアの鉄道模型のくろびかり秋の冷気が部屋に満ちゆく

・巻き戻す音がこのごろ五月蝿くてビデオデッキに七度目の秋

・あちこちの防犯カメラにわが影を残して雨の一日を終える

 

 最初の三首あたりは、サブカルチャー色が濃密というべきか。一首目は「ジェイムズ・ティプトリー・Jr忌」というタイトルの一連のもので、アリス・B・シェルドンはSF作家ティプトリーJrの本名。この作家名については、歌集にも注が付されているので、それを転記しておく。

 「アメリカのSF作家。本名はアリス・ブラッドリー・シェルドン。一九八七年五月十九日、病気の夫を射殺した後、自殺。」

 これだけではまだわかりにくいかもしれない。女性でありながら、男性名のペンネームを使っていたこと。一九七〇年代から八〇年代にかけてのSFシーンをリードする作家であったこと、それゆえに、その夫との無理心中という結末が大きな衝撃をよんだこと、さらに歌の冒頭の「たったひとつのやりかた」というのは、ティプトリーJrの代表作『たった一つの冴えたやり方』を受けていることなどはわかった方がいいだろう。こういう事実が単なる素材ではなく、詠わずにはいられない切迫した問題として斉藤真伸の内部にあったことは疑いないだろう。

 二首目は歌集のタイトルにもなっているクラウン伍長の歌で、注釈は前に記してある。このクラウン伍長への思い入れの根拠は、解説の加藤治郎が「思えば、この『クラウン伍長』の軸は、討死の志士の列伝ではなかったか。」と鋭く指摘している。他に「Son of a bitch!を叫び終わらず四散した歩兵中尉がぼくの前世」といった同一モチーフの歌もある。要は「志なかばで倒れた者」たちへの心寄せが強いということだろう。 日本愛国党の党首赤尾敏は、一九八〇年代半ばくらいまでは、西銀座の交差点でいつも演説していたものだ。チャーリー・ゴードンはベストセラーになったダニエル・キイスの小説『アルジャーノンに花束を』の主人公。このあたりは、作者としては本当は注釈などつけずとも、わかってほしいところかもしれない。

 次の「姿見」の歌には新興俳句の代表作家渡辺白泉の俳句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」が、詞書的に付されている。この時代への不安感の斉藤真伸流の変奏である。「戦争の身代わりとしての姿見」というアイテムの設定は、白泉の句以上に絶望感が深いと私には感じられる。

 最後の三首はどれも良質の抒情が読み手の心に沁み込んでくる。グラビアの鉄道模型、古くなったビデオデッキ、雨の日の防犯カメラ、どれも一首の中で、かけがえのないアイテムとしての存在感を放っている。つまり、存在感を放つように、作者が言葉を使いこなしている。

 

 実はこの一部の作品だけでも、ゆうに一冊の歌集としての歌数もあるし、オリジナルな歌の世界を構築していると思うのだが、評価すべきなのは、あえて第二部として、より日常に重心を置いた歌をそろえてみせたところである。

 第二部の冒頭は「妻となるひと」と題された相聞の一連である。

 

・白魚を醤油にそめて一瞬の沈黙生れる祝いの席に

・透かし浮く和紙の面に天麩羅の衣のはじが残りて二月

・みずうみの汀をあらう春のみず地球が二人の分だけ沈む

・歯ブラシの毛先はゆるくひろがって洗面台に春の朝かげ

・雨の夜のヘッドライトがかきわけて妻は駿河の海を見ている

 

始めの二首は祝言の席だろうか。白魚や天麩羅に対する眼は、写生の鋭さといってもよいのではないか。三首目以降は、清新な相聞の思いが、わざとらしくなく伝わってくる。 この一連以降も妻の姿は、魅力的に詠われている。

 

・生活の木のパンフレットは顔のした妻が居眠る午後のテーブル

・米を研ぐ音を怒らせわが妻の背中はさらに丸まってゆく

・ワインラベル剥がさんとしてこの妻はわれの知らざる器具を取り出す

・ゆくりなく紙づまりするFAXの苦痛解く術妻は知らざり

・ガンダムを語れるときの男らのまなこの熱は妻を怯ます

 

 妻の存在感が濃密なのは、「生活の木のパンフレット」とか「米を研ぐ音」とか「われの知らざる器具」とか「紙づまりするFAX」とか「男らのガンダム熱」とか、配合されるものや状況が効果をあげているからだ。その状況を作者が的確に把握して、歌をつくっているというわけである。

 もう一連、この第二部の白眉として、「柿」一連を挙げておきたい。「二〇〇八年九月十七日、我が師上野久雄死す」という詞書から始まる十七首であり、いわば斉藤真伸にとっての「悲報来」である。

 

・病院ゆ戻る夕べのくらきみち神の壊れた玩具かヒトは

・死に髭を奪い取られて先生は白き布団にいま横たわる

・髭のなきその死顔を見ておれば気ぐるいじみたもの込み上げる

・亡骸を燃やし尽くせばくろがねのアララギの実が残るのだろう

・柿よ柿なぜに実るか先生はもはやおまえを食えぬというに

・一箱の柿を残して辞去すれどなぜかわが身は軽くならざり

・いつぞやと変わることなく先生の最後の愛車はガレージにあり

・夕ぐれる家の門扉がわが愛車のルームミラーに遠ざかりゆく

・秋場所もパドックもなきあの世などわが師にはさぞ退屈だろう

 

 けっして奇を衒った挽歌ではない。師への追慕の思いはストレートに伝わってくる。それだけではなく、斉藤真紳の師である上野久雄という人が、髭をはやしており、柿が好物であり、車を愛して、自ら駆使する人であり、相撲と競馬が好きだったとのディテールが、これらの歌を読むことで、読者にもわかる。さきほどからくり返し書いてきたように、歌の対象をきわだたせるために、細部をきちんと表現するという技法が、この一連でもきちんとおさえられているわけなのである。それゆえに、やはり、信頼感をもって、読み進むことができる。

 新鋭の第一歌集でありながら、師への挽歌が収録されているというものも珍しいのではないか。しかし、この歌集『クラウン伍長』には、それゆえの違和感などない。そう思ってあとがきを読むと、こんなエピソードが綴られていた。

 「実を言うと数年前に本歌集の原型ともいえる草稿ができあがっており、生前の上野先生に一回目を通していただいている。本歌集のタイトルはその時の上野先生の発案によるものである。自分としては他に腹案がないわけでもなかったが、これを故人の遺言と思い、従うことにした。ゆえに本歌集は上野先生に捧げる一冊である。」

 初めにこの歌集のタイトルが絶妙だと記したが、つまりは、必然的なものだったということなのである。「クラウン伍長」を提案した師匠も、弟子の才能の質を見抜いていたということでもある。面白い歌集の誕生だとつくづく思う。

 

 実はこの歌集の巻末には「大菩薩峠彷徨」と題された五十首の大作が置かれている。全四十一巻に及ぶ中里介山の未完の大長編『大菩薩峠』への歌人からのオマージュであり、同時にそこに描かれたニヒリズムへの心寄せとも思うが、この連作に関しては、まだ、読めるという実感がないので、読者としての私の今後の宿題とさせてもらうことにしたい。 そして最後に、この歌集のエピグラフのもまた暗示的であることに触れておく。

 「――それからのことは、ぼくにもわからないよ。 カレル・チャペック『山椒魚戦争』(栗栖継訳)より」

 不可知をまず掲げての出発。作品の中のたくさんの引用の織物も、ついにはこの一言に収斂してゆくのだろうか。清新な抒情や歌の核をもっともふさわしいかたちで表現しうる技術力、もちろん、才気も覇気も韜晦もある。こういう第一歌集が出現するとは思ってももみなかった。しかし、いざ、出現してみると、実はこの歌集をずっと待っていたような気もする。とりあえず、走り書きにも等しい読後感を述べたあと、アルジャーノンならぬクラウン伍長に花束を!