藤原 龍一郎


越境する短歌、越境する歌人

 短歌に関連した出版状況が少しずつ変わりつつあるような気がする。たとえば、先月紹介した書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの刊行なども、その変化の一現象といってもよいかもしれない。

 今月もそんな変化を感じさせてくれる出版物と出会うことができた。

 一つは北日本新聞社編『いまドキ語訳越中万葉集』(北日本新聞社刊)という本。これは大伴家持が越中の国守として在任していた当時の和歌を中心とした「越中万葉」の作品五十首を現代歌人が短歌に翻案し、その鑑賞とともに一巻にまとめたものだが、他にもイメージ写真やツイッターで募集されたいまドキ語訳短歌も収録されている。とりあえず、本の主旨をまえがきの部分から引用してみる。

 

「本書は「いまドキ」の言葉や感覚を緩用しながら、さらに万葉集の魅力に迫ろうとするものです。「越中万葉」の中から1首ずつ短歌を取り上げ、現代短歌に翻案することで、現代人と万葉人の間に回路をつくろうと試みました。この企画に、歌壇の第一線で活躍する若手歌人が協力し、北日本新聞文化面で、2012年7月から2013年3月まで26回にわたり「いまドキ語訳越中万葉」が連載されました。「いま」と「むかし」を視覚的にもつなげるため、テーマに合わせた写真を本社編集部が撮りおろしています。今回書籍化に伴ってあらたに3人の執筆者が加わり、ツイッターで公募した「いまドキ語訳」の作品も収載しました。コレまでの研究書とは一線を画したアプローチですが、大伴家持とその仲間の万葉の人々が、自分の友人や同僚のように、親密に感じられるのではないでしょうか。本書を通じて多くの人が、越中万葉と現代短歌、二つの魅力に触れてくださることを願います。」

 

 ということだが、実例を挙げたほうがわかりやすいだろう。

 

・天皇(すめろき)の御代(みよ)栄えむと東(あずま)なるみちのく山に金花(くがねばな)咲く

 

 これは万葉集巻18の4097「天平感宝元年5月12日、家持が陸奥国より金が出た詔書(みことのり)を祝した歌」である。

 

この歌をいまドキ語に翻案したのは笹公人。

彼が家持の歌をいまドキ語に翻案すると下記のようになる。

 

・天皇は持っていますぞ! 大仏が黄金の雨浴びはじめたり

 

 いかにも笹公人らしい。「持っていますぞ」という流行の言葉も、このシチュエーションにはうまくはまっている。聖武天皇が大仏を造営している最中、鍍金用の金が不足する。その時に陸奥の国の涌谷から砂金が発掘され、献上される。

 「家持はこの出来事を天皇の御代が永遠に栄える瑞象であると感じ、祝いの歌を詠んだ。こんな奇跡が起これば、家持ならずとも誰もが「天皇は(強運を)持ってる!」と驚いたことだろう。この歌では「金花咲く」という比喩で金が産出されたことへの喜びが詠まれている。大仏建立によってすさまじい経済波及効果が生れたようだが、それ以外にも砂金の発見という大きな副産物がもたらされたことになる。まさに大仏様様である。」

見開き2ページのエッセイで、それぞれの歌人が、歌の背景などを読み解いているが、これも、それぞれの歌人の持ち味が出ていて、単なる解釈本の弊をまぬがれている。新聞に掲載されたということからも、文章がわかりやすく、しかも面白い。

 かつて『チョコレート語訳みだれ髪』というここみがあったが、この本はアイデアとしてはその進化形である。しかし、50人の歌人が、アイデアを駆使していまドキ語訳にチャレンジしているだけに、こちらの方が自由度が高く、バラエティ豊かである。なにより、読みものとして、楽しく、読み飽きない。

 

 何首か元歌といまドキ語訳を並べてみる。

 

・草枕旅ゆく君を幸(さき)くあれと斎瓮(いわいべ)すゑつ吾が床の辺に/大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)

・わが眠りまばたきをして君がゆく道にやさしい風の帆を張る/大森静佳

 

・立山(たちやま)に降り置ける雪の常夏(とこなつ)に消(け)ずて渡るは神(かむ)ながらとぞ/大伴池主(おおとものいけぬし)

・永遠に雪が積もっている山に永遠に神住みて動かず/花山周子

 

・かからむとかねて知りせば越(こし)の海の荒磯(ありそ)の波も見せましものを/大伴家持

・白雲(しらくも)となりて荒磯(ありそ)の波を見るおとうとよ呼べ兄の名を呼べ/光森裕樹

 

 光森裕樹がいまドキ語訳した家持の歌は、都で長逝した弟の書持(ふみもち)を哀傷する歌。大森静佳、花山周子、光森裕樹と、いまドキ語訳という軽いイメージを裏切る本格的な現代短歌への翻案といえる。この本の成功は、この点にもある。翻案された歌が他愛のないものであれば、それは動員された歌人たちの敗北である。しかし、ここに集合した現代歌人たちの歌は、元歌の「越中万葉」に詩歌としてじゅうにぶんに拮抗している。詩歌の言葉を扱う技術力の高さを、それぞれの歌人がしめし、さらに、自分の個性をうちだすということに、誰も臆していない。歌人とよばれる人たちの力量を、一般の読者にわからせるための絶好の一書になっている。

 巻末に解説「越中と家持――しなざかる越に五年住みて」を島なおみが書いている。この卓抜なアイデアを発想、実現するのに彼女が力をつくしたのだろとは思うが、古典と現代の交感という意味で、みごとな成功事例を残したといえるだろう。

 

 もう一冊紹介したいのが、東直子、佐藤弓生、石川美南共著『怪談短歌入門 怖いお話、うたいましょう』(メディアファクトリー刊)。

 この本はツイッターで募集された怪談短歌を三人の歌人が選び、選歌座談会とともに作品を集成したもの。これも、読んで面白い短歌の本という企画であり、短歌実作者のみならず、一般の読者にも楽しむことができるユニークな内容の一冊といえる。昨年の8月にこの本の共著者の一人の佐藤弓生が『うたう百物語』(メディアファクトリー刊)という、現代短歌とそれからインスパイアされた怪談的な掌編小説集を上梓しており、その延長線上で発想されたアイデアかもしれない。佐藤弓生は『うたう百物語』では、単に怪異な物語をつむいでみせるだけではなく、一遍ごとに久生十蘭ばりの彩なす文体を駆使してみせるという、卓抜な文章力を見せてくれた。

 この怪談短歌の募集は、ネット上で二度にわたって催されたということで、それぞれ907首、725首の応募があったのだそうだ。選考座談会の部分では、短歌形式で語る怪談の特質や骨法が語られていて、うなずかされるところが多かった。

入選作品自体が、この本の大きな読みどころなわけで、作品紹介自体がいわゆるネタバレになってしまうかもしれない。そういうことに気をつけつつ、何首か紹介してみる。

 

・クロールのフォームを直してくれし手はまた水底へ消えてゆきたり/沼尻つた子

 

 第一回の募集作品で佐藤弓生が大賞に選んだ一首。

佐藤は選評で次のように書いている。

「怪談とは、時間の表現でもあると感じさせてくれた一首です。ホラー作品は瞬時に「あっ!」と思う場面が欠かせないのに対し、この歌のように数秒後に「……え!」と気づいたり、後日「あのときのあれ、なんだったの?」と考えたりするように。」

 掲出歌のこわさの構造を的確に解説してくれているし、そういう解説がなくとも、この歌を佐藤弓生が選んでくれたおかげで、この一首を読み、うーん、ぞっとする、面白い歌だなと反応することができる。

 この歌については三人の座談会でもふれられているので、引用してみる。

 

佐藤弓生「この歌の場合、クロールのフォームをなおしてもらったときは「ああ、ありがとう!」としか思わなかっただろうけど、その手が消えていったあとに「えっ!」と驚くことになる。その時間差を面白く感じました。」

東直子「確かにホラー的な怖さとは一線を画していますね。」

佐藤「それと、短歌って、そこに書かれていないことについては、自由に解釈できるのがおいしいところで。私はこの歌を読んだとき、女の子が年上の、今はもうこの世にいない男性にフォームを直してもらう情景が目に浮かんだのだけど、東雅夫さんは「これは男の子が女性になおしてもらったんじゃないか?」と私とは正反対のことをおっしゃったんです。」

東「私は死んだお母さんだと思った。」

石川美南「「クロール」というのもうまい気がします。スイミングスクールや小学校などで最初に習うのがクロールじゃないですか。だから、なおされた人はけっこうおさないんじゃないかという印象が残る。」

 

 読みがわかれるのは、歌会などでさんざん経験している私たちだが、この怪談短歌では、その読みの多様性自体が面白さにつながっているのがわかる。

 私などはこの一首を読んだとき、2007年に佐世保のスイミングクラブで起きた乱射事件を思い出したりした。読み手がいかようにも想像力を発動させることができるところが、怪談短歌の楽しみ方なのだと思う。

 上記の座談会で佐藤弓生が発言しているとおり、「短歌はそこに書かれていないことについては自由に解釈できる」わけであり、それが怪談に通じていくわけであるから、確かに怪談短歌というのは、短歌の特性を生かすのには好都合な方法なのかもしれない。だとすれば、この本の趣向も、短歌という詩形の表現の領域を拡大し、しかも読者にもその面白さを十全に伝えることができるグッドアイデアということになる。

 

 入選作品を少しだけ紹介しておく。

 

・永遠に友達だよね よせ書きにひっそりとある知らない名前/高橋徹平

・あいさつをすれば案山子になるひとがまた一人いて雲の反照/我妻俊樹

・美しい女の足に履き替えてひとり静かにペディキュアを塗る/空木アヅ

・朝凪の渚わたしが何体も打ち上げられて陽をあびている/星川郁乃

・厠から仏間にかけてぴちゃぴちょとのたうつ金魚の一列縦隊/立花腑楽

 

 二冊の本を紹介したが、どちらも、短歌それ自体に旧来の枠組みを越境させるアイデアが成功しているといえる。そして、それらの越境行為に対して、歌人たちがそれを支えるだけの力量を発揮している。『怪談短歌入門』の東直子、佐藤弓生、石川美南は『いまドキ語訳越中万葉』にも参加していて、溌剌とした才気を見せている。結社誌や短歌専門誌に短歌を発表しているだけではなく、歌人自身が短歌を越境してゆく時代になってきたのかもしれない。それは刺激にみちた、願ってもない状況である。