短歌破壊と滅亡論

これはわたしの病のようなものだと思うが、若い頃からときに――しばしば――三十一文字、五句三十一音で並べられた歌のどれもこれも、すべてが退屈で、うさんくさくて、なんだこんなもの、と投げやりたくなるように感じられるときがあった。たこやき器にのった三十一個のたこやきを見ているような窮屈な思いに堪えきれない。ひるがえって、はて、自分の歌はどうなんだ、と引き出しから取り出してみる。

この原稿を書かなければならない今朝方からそんな「発作」が起きて、しばし、ぼうと坐っていた。

 

話題はたくさんある。加藤治郎歌集『Confusion』、大森静佳歌集『カミーユ』、小佐野弾歌集『メタリック』、穂村弘歌集『水中翼船炎上中』、それに「かりん」は四十周年を迎えたというし、物陰をふとうかがえば、先月このコラムでもとりあげた田中教子の連載「歌の小窓から」など若い歌人に対する批評をめぐってせめぎ合いの小さな炎がちろちろと揺れている。

 

そういえば、短歌滅亡論はこのごろ現れないなと思って迢空を取り出す。誰も滅亡を言わないほど短歌という形式の未来は信じられているのだろうか。

 

加藤治郎の『Confusion』は、定型をガリガリとミキサーにかけて「詩型の融合」(あとがき)を企図するのだから、滅亡ではなくて破壊だ。にもかかわらず、一冊としてはほどよい調和が達成せられている。破壊的なエレキ・ギターが轟き、鳴り響き、合間にごく抒情的なメロディアスな小曲をはさむような、そんな調和の取り方である。

 

穂村弘の『水中翼船炎上中』は、れっきとした講談社から第一刷として発行しながら、一頁二首組の伝統的な歌集スタイル。集中挟まれた「『水中翼船炎上中』メモ」という紙片には、「読者へのガイドとして各章の背景というか簡単な見取り図を記しておきます」として「現在」「子供時代」「母の死」「その後」「再び現在」など、現実生活的情報を出して裏打ちをする。従来の短歌に寄り添うような歌集の差し出し方だが、内容はこれまでの穂村弘のもっている絵本の世界以外のものではない。わたしには関心のない世界だけれど、これはこれで言語センスの良い一冊である。

ただ、ここでも短歌は破壊されているといわなければならない。

 

仏様の御飯かぴかぴ固まってころんと落ちる台風一過

 

以前から穂村弘の特徴だが、名詞止めが非常に多く、その名詞止めの使い方が「穂村的」で、三十一文字ではあるけれど「歌」ではない。歌とするならば、子規の言ったいわゆる「頭重脚軽」でうつくしくない形である。最後にぽんとハンコをつくような穂村流の名詞止めは模倣者を多く出した。ここでは、短歌はもう滅びていると言ってもいいだろう。

 

加藤治郎と穂村弘の歌集に共通しているのは、読者に見せるものとして差し出す、その差し出し方である。歌がこのように「見せるもの」として差し出されるようになってから、もう長い。

 

 

確固たる理想くづれてなほ僕を赦せるらしい 母といふひと

受け容れることと理解のそのあはひ青く烈しく川は流れる

                     『メタリック』

 

小佐野弾の歌は、読者を意識した修辞もないことはないけれど、自分のためだけに作っているという韻きがまつわる。これが従来からの短歌読者にはすっとなじむ。告解室から洩れる声を盗み聞きするやましさをともないつつ、人間のもつ切実なひびきに胸をゆすられるのだ。

もっとも、これももう少しわかりやすく砕いて大量の読者の前に放られれば、たちまち食い荒らされることだろうが。

 

 

 

――思わず、ながながと書いてしまった。

冒頭に戻れば、三十一個のたこやきの窮屈さ調子良さ安直さにいらいらしながらも、そのすぐあとに、かつて心を掴まれたことのある歌のいくつかの記憶が蘇る。歌ってなんだろうと吐息のように思う。

面従腹背のようなかたちで歌という形式に従いつつ、解けない疑問を追い続けないではいられない。そうして、歌の起源を手探りにさぐっているうちに、歌の滅亡などつゆ思わず、なんとかあるべき姿で蘇生させたいとばかり願うようになっていた。

 

歌は、もう滅んでいる――かも知れないのに。