ゆくりなくも出遭う ―― 谷岡亜紀作品など

 

短歌のようなものは、ゆくりなくも出遭うといったようにして読むのが、いちばんよいのではないか。欠らのようなものが、どこか物足りないこころにすうっと入り込んでくる。そんな出遭いかたが、いちばん歌の価値をよく教えてくれる。

 

いわば、初心の頃の出遭いのように。少し歌の世界を知ってしまうと、雑誌など開いても雑念ばかりが先入観をつくって、歌そのものを楽しむことができない。うまいか、へたか。目立つか、目立たないか。また、束で読まされるので、読み方がどうしても散文化する。読み飛ばす。成心をもって読むようになる。

 

歌は、日本語が持ったいちばん初期の詩型の一つだから、一首ごとに初めて作ったときのように作り、初めて出遭ったときのように読むということを、詩型の遺伝子が要求するのかもしれない。即時が大切。

 

そういえば、芭蕉も句は三才の童子にさせよと言った。書や文人画のようなものも玄人臭は嫌われる。そういう系列の美の伝統があるのだ。ゆくりなくも――といったふうに現れる一回性の躍動する生の美。創作の場面だけではなく、読むという体験もそのようなものとして現れる。一期一会だ。

 

歌は短いから、読む側に先入観(成心)があるとまったく異なったふうに読めてしまう。歌壇向けの雑誌など読むときには、ことにもそうである。文語だろうが口語だろうが、若かろうが年寄りだろうが、有名だろうが無名だろうが、いっさいを拭い去って、ゆくりなくも歌に出遭いたい。わたしが歌を読むとき、つい忘れ去っては自らに改めて課するこころの基本の姿勢は、これである。

 

このたび、そんな出遭い方をしたのは、谷岡亜紀「うずくまる母、空を飛ぶ父」三十三首(『短歌往来』七月号)だった。

 

 

  アトリエに僅かに及ぶ陽の中に父は立ちおりいたく汚れて

  父が今日行方不明の人として放送される残照の町

  脳外科の待合室に厳かに冬の朝日の讃美歌及ぶ

  万札をばら撒き歩む人のあとをつけてこの世の外れまで来つ

  父がまだ変になる前描きたる自画像は帽子を取りて手を振る

  ひさかたの雨戸閉ざしてあかねさす朝からウイスキー生(き)で飲む人よ

  全世界の大酒呑み諸君、浴びるほどに凍るほどに飲みそして死に給え

  カンバスに狂気の赤をぶちまけてわけのわからぬ自分に怒(いか)る

  混乱し錯綜しつつベランダで父が名を呼ぶ昭和天皇

  いたく老いたる顔が鏡に映れるを驚愕しつつ見ていし人よ

 

 

一連は、老い耄けた母と精神に変調を来す父とをうたったもの。昨今よく見る親の介護の歌の一種といっていいかもしれない。めずらしくもないわけだが、これらの歌にわたしの目はながくとどまった。画家だった父の一生が見えてくるような気がする。昭和を生き、おそらく戦争に行ったのではなかろうか。青春の血を燃やして絵画を学び、職業とし、精進したり酒を飲んだり家族を営んだり、そういう日々があって、いま老い果てた。

 

介護の歌というのではなく、谷岡亜紀はこのような父の一生に向き合っている。愛惜をこめて。現実には陰惨な諸場面だろうが、歌は少しも陰惨でない。〈脳外科の待合室に厳かに冬の朝日の賛美歌及ぶ〉、手術室から出てくるのを待っていたその待合室に冬の朝日がさしこむ。その朝日の明るさ、ぬくとさを「讃美歌」と比喩する。これはほんとうは手術室の前でなくてもいいのだ。暗黒の夜が明けて差し込む冬の朝日からうるおうように光の讃美歌が湧き上がる。たった一回切りの生の祝福と感謝。それが、何の理屈もなく、初々しく歌から立ち上がってくる。

 

 

この『短歌往来』七月号を読んでいて、もう一首、ゆくりなくも出遭ったのは、本田一弘が掲げていた次のような東日本大震災の歌だ。

 

  ガスボンベ瓦避けつつあゆむ畔津波のあとの田は生臭し

                  遠藤たか子『水際』

 

「この七年のあいだ、数多くの震災詠が生まれたが、ほとんど視覚で歌われたものだろう。津波の後の田の生臭さを詠んだこの歌を読むたびに切なく、胸が痛くなる」と、本田一弘はコメントする。

 

「田は生臭し」と読むたびに、その日の感覚が蘇るのだ。津波を経験しなかった読者であるわたしのうちにも、その感覚が生起する。