日本語のうたとアメリカナイゼーション

渡邊澄子著『植民地・朝鮮における雑誌『国民文学』』を手にとって、その表紙カバーに大きく刷られた文字をしばらく眺めた。
わたしたちの子どもの頃は、国語と言い、国文学と言って何も疑わなかった。教科書はいまなお『国語』だろうか。大学では国文学科はどこでも無くなって、日本文学科となっているだろう。その日文も、国際とか文化とかいう名に統廃合されていっているように聞く。それにもうすぐ小学校三、四年生から英語の授業が入るのだとか。

 

 

国語学者二人と共に支那兵に銃殺さるる夢を視てゐし
                       斎藤茂吉『寒雲』

 

敵国兵からまず銃殺されるのは、国語学者と歌人であるということを、茂吉は知っていた。「国語」とその言語に根づいた詩歌を根絶やしにすることが、戦争のもう一つの側面である。日本の韓国併合は一九一〇(明治四三)年の詔勅「韓国ヲ帝国ニ併合スルノ件」によるが、雑誌『国民文学』が生れたのは一九四一(昭和十六)年十一月一日、「内鮮一体という皇民化=同化政策」をすすめる必要のあった時期だった。

 

内鮮一体という皇民化=同化政策を朝鮮総督府が施行した背景には、ますます激化してゆく戦局のなかで兵力が不足し、一刻も早く朝鮮人を徴兵する必要に迫られていた帝国日本の切迫した事情があった。しかし、実際に戦場で朝鮮人に銃を持たせた時、日本と中国、どちらに銃口を向けるかわからない。そのために朝鮮総督府は内鮮一体を施行して、日本に従軍する兵士を早急に作らなければならなかったのである。内鮮一体を文学化し、そのプロパガンダとして誕生したのが、まさに『国民文学』であった。         

                     解説・崔真碩「『国民文学』とその時代」

 

一九四三年、朝鮮にも「徴兵制」が公布され、横光利一はそれを「内鮮の無差別平等」として慶んだという。女性に徴兵制が実施されて「男女平等」を慶ぶというようなものだ。
『国民文学』編輯発行人は崔戴瑞(チェ・ジェソ)、のちに創氏改名して評論を石田耕人、小説を石田耕造の名で発表した英文学者である。

崔戴瑞は、京城帝国大学英文科卒業後ロンドン大学に留学、イギリス文学批評を紹介した俊才で、田中英光の戦後作品『酔いどれ船』には崔戴瑞がモデルの人物が登場する。「かつてはマルクシズム文芸理論家として、朝鮮第一の人物」だったが、「正月休みにビール瓶をぶら下げて夜更けに主任教授高木市之助を訪ねて、「先生たちはどんなにいばったって僕たち朝鮮人の魂をうばうことはできないよ!」と「凄文句」を発したというエピソードを持つ気骨ある青年だった」(渡邊澄子)。

 

この俊英の英文学者でもあり評論家でもある崔戴瑞が、やがて「読者が半島二〇〇〇万ではなく日本人八〇〇〇万合わせて一億の全国民のものとなり、やがては十億の大東亜諸民族のものになるのが理想であると「英吉利(イギリス)文学における蘇格蘭(スコツトランド)文学」の例を挙げ」(渡邊澄子)て八紘一宇の思想のもと、自分は本当に日本人になりきれるのかと自問自答しつつ創氏改名をするにいたる。その苦悩と軋轢と、結局のところ自己瞞着と非難されざるをえない過程をたどった内面のドラマを思わないわけにはいかないのだが、ここにあげたいのは、解説者・崔真碩(チェ・ジンソク)の次のような指摘である。

 

 

(略)他者への暴力を見過ごす度に暴力に対する人々の感覚は麻痺し、すると、その暴力が自国の社会でまかり通るようになってしまい、社会は内側から壊れるのだ。植民地支配責任や戦争責任を誠実に果たしてこなかっただけ、戦後日本の社会は壊れ続けてきたし、自壊は今もなお終わっていない。
 『国民文学』の時代の国民化・皇民化の暴力は、戦後日本のアメリカナイゼーションに通じている。過剰なまでの親米・対米協力。アメリカへの自発的隷従は、安倍政権に至り、いよいよ最終段階に入ったようだ。集団自衛権を行使してアメリカの戦争に追随しようとしたり、文科省が「スーパーグローバル」なるスローガンを掲げながら日本の大学教育をアメリカ英語化する昨今の流れは、まるで『国民文学』の時代の植民地朝鮮ではないか。

 

 

崔真碩は、一九七三年生まれ。現在は広島大学大学院の准教授、専門は朝鮮文学、ポストコロニアル論、東洋平和論。

『国民文学』の座談会における林房雄の「もう朝鮮語は小学校でもなくなったんでしょう」という問いかけに、「そうですが、朝鮮語は決してなくなりはしません。ただだんだん薄くなって行くんですが……」(兪鎮午)という消え入りそうな応えを引いて崔真碩は、「決してなくなりはしないが「だんだん薄くなって行く」というのは、学問領域を問わず、また右派左派を問わず、当時の朝鮮の文学者や知識人たちが抱いていた率直な感慨であるように思う」とする。そんな「『国民文学』の時代の植民地朝鮮」ではないか、日本の現状は、というのである。

 

 

他の領域はともあれ、短歌領域にあっては、「決してなくなりはしないが「だんだん薄くなって行く」という消え入りそうな応えが、わたしの身に沁みないではいられない。

人工的に東京界隈の言葉を標準として作られてきた近々百年程度の「口語」を、千数百年つかいならされてきた短歌形式にのせて、それが新しい短歌、未来の短歌などといわれている現状を思えば、この傾向が、「戦後日本のアメリカナイゼーション」「文科省が「スーパーグローバル」なるスローガンを掲げながら日本の大学教育をアメリカ英語化する昨今の流れ」と無関係ではなく、ひいては「植民地支配責任や戦争責任を誠実に果たしてこなかった」戦後社会――これは、ここでは短歌の植民地支配責任や戦争責任と読み替えたいが――とも無関係ではないことが痛感されるだろう。さらに言えば、日本の近代化の仕方にまでおよぶ問題だろう。

 

 

『現代短歌』九月号をぱらぱらとめくっていたら、「そんなことをしたら、短歌が終わってしまう――という声を、もう僕たちは何度となく聞いた」という一文が目に入った。土岐友浩の歌壇時評「濡れた熱風について」冒頭である。

時評は、穂村弘の新歌集『水中翼船炎上中』をとりあげて、「穂村が求める「魂」とは、少なくとも歌集を読むかぎり、引き伸ばされた幼児性とイコールのように、僕には見える」「もちろん穂村は「僕」という自画像を通して、終わりをひたすら遠ざけようとする日本人の精神を描こうとしたのかもしれない。ただ、だとすれば、かつて安吾が書いた「運命に従順な日本人」から僕たちは一歩として成長していないどころか、退行してしまった可能性さえある」と評する。

「運命に従順な日本人」から立ち直れないのは、戦争責任をきちんと処理しきれなかった戦後日本の問題もあろうし、何より「戦後日本のアメリカナイゼーション」のただなかでより濃く培養されていったのが穂村たち世代以後であることもかかわるだろう。

 

 

「そんなことをしたら、短歌が終わってしまう――という声を、もう僕たちは何度となく聞いた」という一文は、鋭くわたしの目を打って、何度もひらいて読まねばならなかった。しかし、短歌、ではない。うた、だ。日本語によるうた、が終わってしまう。そう言うべきだ。

 

 

土岐友浩は、京大短歌24号に西部邁の自死にかかわって多摩川をたずねた歌とエッセイを書いている。

 

(前略)大学生のときに氏の著作は何冊か読んでいて、言葉の原義をひとつひとつ探り、たしかめながら思索を深めるその姿は、言葉の水先案内人、という形容がぴったりだった。『昔、言葉は思想であった』は文庫になったら買おうと決めて、某「ほしい物リスト」に入れてあった。
   世間的には反米の論者、といったイメージがあるかもしれないけれど、氏が本当に危惧していたのは「近代」つまり行き過ぎた「モダニズム」が、人間から自由や尊厳を奪ってしまうことだっただろう。(後略)

 

 

 

どのような言葉のなかに生みつけられて、人間としての精神をはぐくむか、それはまことに重大なことだ。日本語のなかに生みつけられたわたしたちは、日本語のうたについて思考しなければ自らを相対化することはできまい。近々百年の口語で、根を切ってしまうことは、自らの相対化を永遠にさきのばしにすることになる。引き返せるうちに引き返して、新しい道を見つけたいものである。