歌のアイデンティティー

石川九楊著『漢字とアジア 文字から文明圏の歴史を読む』(ちくま文庫)が、面白い。2007年に筑摩書房から出た単行本の文庫化なので、すでにお読みの方もあろう。書評はある新聞に書いたが、短歌をつくる者として啓発されたことを記しておきたい。

石川九楊は、結論として次のようにいう。

 

 

東アジア(筆者注・日本、中国、韓国・朝鮮、台湾、越南(ベトナム)が含まれる)においては、言語は声である以上に文字(書字)である。文字が歴史をつくり、文字によって文化のみならず国までもが形成されている。…(略)…東アジアは漢字がつくりあげた文明圏である。

 

 

漢字は、西欧アルファベット、アラビア系文字、インド系文字とは異なって、一文字が一語である。「「言葉即文字(漢語=漢字)」という構造をもった〈音〉よりも〈義〉優先の言葉」である。「声中心の西欧の言語と、文字=書字中心の東アジアの言語は基本構造を違えている」。西欧の言語学は、文字に対する観念がまったく抜け落ちている。

 

東アジアは、漢字=漢語によって文明化されていった。

日本では、大陸から来た文字と言葉との衝突によって、漢字=漢語に対してひらがなが生まれ和語・和歌・和文による独自の文化が生まれていった。

言葉も文化ももともと「ある」ものではなく、「できる」ものであって、「古代倭というのは本居宣長以降の妖しき幻想なのです」

――石川九楊は、このようにいう。

 

 

『古今和歌集』が、なぜその後の日本文化を決定づける正統な古典になったか、その意味と重要性が、なんだか急にいままでとは違って見えてくる。和歌においては、朗読より、ひらがな書きによる書字のほうがずっとたいせつだっただろう。

 

日本語の成り立ちは、漢字=漢語なくしては考えられない。骨がらみである。和歌は、そそり立つ文学としての漢詩と格闘すべきものとして誕生した。

 

 

「漢字語を軽視して、漢字語教育を怠れば、四季と恋愛を語るひらがな語の表記が異様に肥大化する。ひらがな語は漢字語との緊張関係の下、その抑制とともにあって、その美しさを発揮する」。明治以来、「西欧言語学と西欧文字論に眩惑されて漢字語を軽んじてきた」結果、「日本語における政治・宗教・哲学の表現は、見る影もなく乏しくなった」

 

 

いっときは西欧の詩が置き換わったけれども、ここに来て格闘すべき「詩」を歌は喪失してしまっている。異様に肥大化した「四季と恋愛を語るひらがな」歌ばかりである。いや、「四季」さえもわたしたちは失ってしまった。苦く、そう認識せざるをえない。

 

和歌はたぶん何かをつっかえ棒にしなければ自立しえない詩型なんだろう。正岡子規が、漢語でも横文字でも何でも投入して自立しうる詩型への道をつくったのであろうけれど、人間の方がずぐずぐになってしまった、ということか。

 

 

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ところで、「歌壇」10月号の「定綱が訊く ぶつかりインタビュー⑤穂村弘」は、穂村弘のベースが塚本邦雄と寺山修司にあることがよくわかるインタビューだった。塚本邦雄は、内容をあらわす「詞」と語を繋ぐ「辞」とに言葉をわけるとすれば、「詞」にウェイトを置くつくり方をしたことは知られている。文中、新歌集『水中翼船炎上中』から引用された数首を読むと、穂村もまた「詞」で歌をつくる。彼の短歌において「辞」はほとんどその一般的機能以上に働くことはない。

 

 

宇宙船のマザーコンビュータが告げるごきぶりホイホイの最適配置

 

それぞれの夜の終わりにセロファンを肛門に貼る少年少女

 

童貞と処女しかいない教室で磔にされてゆくアマガエル

 

 

「宇宙船 マザーコンピュータ ごきぶりホイホイ 最適配置」

「夜 終わり セロファン 肛門 貼る 少年少女」

「童貞 処女 教室 磔 アマガエル」

このままでも鑑賞できそうな、名詞の選びが勝負といった作り方である。

 

 

前述の石川九楊の説を援用すると、漢字=漢語という一字一語の水圧の高い語をいっぽうに鋭く意識しながら、それと拮抗するように音声を写すひらがな語で、一字一語の「義」に頼らず、「辞」の音を活用していくところに和歌があるだろう。

 

 

古帽子かぶりて道をゆくわれや幾(いく)起伏(おきふし)のはてとおもはむ   吉井勇

 

 

宮柊二は、この歌に「三句の「われや」は、窮乏流離下にも歌の調子をじめじめさせない作者の資質が、弾みあるこの「や」の使い方に特徴的にうかがわれる」(『短歌読本』)と鑑賞した。

この「や」という息の籠もった助詞は、語としての一般的機能以上に働いている。普通の人がつかったのではこのようにはならないからだ。「おもはむ」の「む」もそうだ。

 

 

我つねに思ふ世界の開発(かいはつ)の第一日のあけぼのの空      石川啄木

 

 

これも宮柊二が「「我つねに思ふ」まで続けて読む。そこで切れる。「世界の」以下が、「思ふ」の対象内容」と、前掲書に鑑賞する。

「思ふ」で断言して切るので、以下「の」「の」「の」「の」と言い下ろす「の」に生気がやどる。助詞「の」がもつ一般的な機能以上の働きを実現して、一首の歌となさしめた。こういう「辞」の活躍するところに歌のアイデンティティが存在するのである。

 

昔からわたしは、穂村弘の言葉はとてもスマートですっきりしていると思っているが、歌についてはおおいに飽き足りない。穂村弘ふう短歌の蔓延は、歌をやがて滅亡にみちびくだろう。