短歌中心

 

AIが短歌を作るようになったらどうするか、などというような牧歌的な話題をちらほらと見る。碁や将棋があるのだから、短歌だってと思うのだろうが、短歌をAIに作らせてどれくらいの経済効果があるだろうか。AIで『サラダ記念日』一冊でもできれば印税が稼げるだろうが、そんな余裕が世界にあるならいっそ幸いだ。

 

AIがめざましく発展しているのはプライバシーが無いにひとしいと言われる中国だそうで、その動機は軍事力の増強である。新しい科学技術はつねに新兵器の開発が先導する。いま、わたしがタイプを叩いているパーソナル・コンビューターの開発だってそうではないか。フェイスブックのように始めは民間で生まれたものでも、使えるとなるとあっというまに吸収されていく。

 

AIが進化していけばビッグブラザーの世界になるんだそうだが、そんな世界で短歌を作るのならかえって紙と鉛筆だろう。

まちがいなく世界の99%側を生きることになるわれわれにとって、AIの進化が何を意味するか。そんな想像力をもって、しがない短歌作者とはいえども、考えたい。

 

 

『短歌往来』十月号の染野太朗評論「〈読み〉への理解と共感をめぐって」を読んだ。同五月号掲載の柳澤美晴評論「棒立ち、だったのか」における歌の読みに「かなりの違和感をおぼえながら読んだ」という。

 

柳澤美晴の評論は、同誌の田中教子による永井佑や雪舟えまなど口語短歌に対する批判に対して、ひとつひとつ読みを示しながら反論したものである。その読みに、染野は「柳澤の言っていることは理解はできるし、それがなにか決定的な誤りを含んでいたとも思わないけれど、個人的にはまるで共感できない、という内容の連続だった」という。

その違和感をさぐりあてたいという意図をもった評論だ。

 

〈あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな〉(永井佑)というような歌の、どこがいいのかわからないと押しやる、多くは年長世代がいる一方で、染野や柳澤はこの歌に共感する立場だろう。しかし、歌ではなく、同じ立場を共有するはずの柳澤の読みに、まるで共感できないことに染野はとまどう。

 

 

先廻りして本稿の結論を言えば、(略)「新しい」歌に対応するはずの読みが共有されない、ということを僕はおそらく、現在の短歌をめぐる状況において大きな問題だと感じている。歌そのものへの理解や共感ではなく、それに対する読みへの理解や共感における読者間の断絶こそが問題なのだと感じている。

 

 

「新しい」歌とは、いわゆるニューウェィブか、ポストニューウェイブか、永井佑や染野や、そういうひとびとの作る歌をさすのだろう。さらに別の場所では、つぎのように述べる。

 

 

すでに登場している現在の「新しい」歌を読むための読みは、まだ発展途上のものであって、(僕自身のものも含めて)読みの方法のひとつとしてまだ例外的なもの、未熟なもの、あるいは、今まさに形を成しつつあるもの、つまり際立った形を成さないままに廃れてしまう、無視されてしまう可能性もあるもの、ということになるかもしれない。

 

 

このような文章を読んで理解できることは、結社で学びつつ存続してきた旧来の歌に対してわれわれは〈革命〉を起こしつつあるが、まだ道半ばだ、という「「新しい」歌」派の強烈な意識である。「旧来の歌」派が少しおめでたく見えるほど、はっきりとした否定もしくは拒絶意識をかれらは共有している。

若い人だっていろいろいるから、実際はそうばかりでもないのだろうが、そういうコアのようなものが確実に存在している。彼らも本気であり、真剣だ。

 

 

しかしながら、残念ながら、どうしてそんな狭いところで力まなければならないんだろうと、思わずにはいられない。短歌なんか、そもそもが絶滅危惧種ではないか。日本語そのもの、日本文学そのもの、日本文化そのものが、すでにそうではないか。

 

市場経済は固有の文化を均質化してゆく。中国では自国の文化にそうとう投資しているらしいが、日本では国の政策が市場経済に棹さしている。すでに消滅・絶滅していきそうになっている伝統の一部を曲がりなりにも受け継いでいる「旧来の歌」派に対して、市場経済に順応する「「新しい」歌」派には国の政策も順風なのだから、そんなに意識して力む必要はないのである。それより、もっと大きな視野で見たときに、旧来の尻尾をしきりに切りたがっている「「新しい」歌」派の向かうところはどこなのか。

 

ものすごい勢いで変容していく世界と、のっぴきならないところにまできた日本の政治状況にくらべて、短歌作者たちの課題意識はしばしば短歌中心でしかないように見える。