田中槐


短歌・俳句・川柳

「オルガン」という、田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮本佳世乃らによる俳句の同人誌がある。毎号、具体的で切実な問題提起による座談会に読み応えがあるのだが、16号では「樋口由紀子『めるくまーる』を読んでみた」と題し、俳句と川柳のちがいについて語り合っている。

 

最初に少し個人的な話をしておくと、現在わたしは短歌は「未来」に、俳句は「澤」に属している。俳句のほうはややさぼり気味だが、両方をやるようになって、共通項ではなく、むしろそのちがいがよくわかるようになった。

さらに最近、ネット上の連句に誘われ連句を巻く機会があり、俳句だけでなく川柳のことも考えるようになった(言うまでもないが、俳句は連句における発句であり、川柳は付句である)。

短歌と俳句と川柳、この、地続きであるようなないような三つの定型詩の関係はなんなのだろう。このコラムを引き受けることにしたとき、タイトルを「歌の上枝、詩の下枝」としたのは、現代詩を含めたこれらの文芸を広く考えていきたいと思ったからだ。

 

というわけで「オルガン」の話にもどる。

俳句と川柳のちがいの顕著なものは「季語」のあるなしである、と多くのひとが想像する。座談会で田島健一は「季語が他の言葉と大きく違うのは、それが俳句に意味と形式を同時にもたらしているところ」といい、「この季語の性質は俳句固有のものなので、川柳にはそうした機構がないとすると、川柳では基本的に言葉は意味のみに還元される」と指摘している。この文脈における「川柳」の部分は、「短歌」と置き換えることが可能であろう。

鴇田智哉は両者のいちばんのちがいが「切れ」に対する考え方だと指摘し「川柳は俳句に比べて、「切る」ということを前提としていない」という。

 

さらに座談会は私性の話へと展開していく。

 

(福田若之)…〈殺される途中に思う杖突峠〉(筆者注:樋口由紀子の句)、この句を「私性」というような文脈で読もうとすると、けっこう大変で、斉藤斎藤さんの歌〈撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ〉のようなことを持ち出さないと読み切れないかなと。単純に一人称三人称みたいな話ではない。

(田島健一)この句の印象は、斉藤さんの歌のショッキングさとは違うよね。たぶんコンテキストが違うから。斉藤さんの歌は東日本大震災で実際にああいうふうに亡くなった人がいる、という想定のもとに読まれるからではないかな。

(鴇田智哉)この句、切れたあとに「杖突峠」という地名が置かれている。そこで句の景が昇華されるんだよね。(略)地名、固有名詞の効果により景の次元が急に変わる。(略)意味が宙吊りになったり浮遊したりしているんだよね。斉藤斎藤さんの歌のようなドキュメント的なショッキングがないひとつの理由がそこにもあると思う。句と歌の致命的な違いでもある。

 

ここで、「句」と「歌」のちがいが出てくる。川柳において、この「杖突峠」という固有名詞が、季語のような役割を果たしているというのだろう(この句に「切れ」を見出している鴇田の発言は興味深い)。短歌においても固有名詞がそのような役割(歌枕的な)を果たすことはあるが、俳句や川柳の詩型の圧倒的な短さが、そこに「私」を持ち込ませずに、普遍の方向へと転換させていく。

 

さて、結論を急がずに、別のテキストを呈示したいのだが。

短歌ムック「ねむらない樹vol.2」(書肆侃侃房)に「座談会 俳句と短歌と」が掲載されていた。俳句から生駒大祐と大塚凱、短歌からは堂園昌彦と服部真里子という比較的若い世代による座談会である。そこでもやはり俳句と短歌のちがいに「私性」の話が出てくる。

 

(堂園昌彦)短歌の場合にはどうしても「私性」の影響がデカいですね。人がいることを常に担保にしてある。頭の中だけで言葉を作り出すよりも体験したことを書いたほうが、偶然なにかに当たることが多い。(略)頭の中だけで考えると偶然性が下がってしまうから、それよりも人を固定したうえで偶然当たる物事を記述しつづけたほうが面白くなりやすいという考え方を短歌は基本的にしてると思うんですよ。

これに対して生駒大祐が「俳句には季語があるんですよ」と答えたことに堂園昌彦は、「だから俳句は言葉だけでできるけど、短歌はできない」という。ここで先の田島健一の発言を思い出す。

「季語が他の言葉と大きく違うのは、それが俳句に意味と形式を同時にもたらしているところ」

 

このあとの堂園と生駒のやりとりが重要なので、引用ばかりで恐縮だが読んでもらいたい。

 

(堂園昌彦)季語というのは別の大きなシステムなわけですよ。一〇〇〇句作った先に一〇〇一句目があるという考え方をするから、短歌では無化されてしまった歴史の蓄積なんかが俳句では季語に残っている。(略)でも短歌は、私というところ、つまり人間が生きているということを基準に置いている。言葉の使い方は時代の影響を受けるから、自分ではどうしようもないものであってコントロールできない。そこに人生の偶然性まで排除すると均一化が起きてしまう。

(生駒大祐)そこにはリアリティーを作品上でどう担保するかという問題がある。完全な虚構ではなくて現実がどこかにあるのだと担保するのが短歌においては私性で、俳句においては季語なんです。季語は非常にうまいシステムで、言語空間・時空間双方において句を拡張してくれる。季語を通して自然と通じることに加え、過去の名句が重層的に背負われるからです。

 

どうだろう。俳句と川柳のちがいから、短歌と俳句のちがい、川柳と短歌のちがいまで、わりと地続きな問題が横たわっている。キーワードは「切れ」「季語」「私性」である。短歌においてはもっぱら「私性」の問題が話題としてとりあげられがちだが、この問題を短歌固有の問題としてだけ考えるのではなく、ひろく定型詩の問題として捉えることによって、新たに見えてくるものがあるのかもしれない。

大雑把な印象評ではあるが、俳句は短歌より十年遅れているといわれる。だからなのか、俳句のひとのほうが短歌に興味があるような気がする。歌集を読んだり、批評会や勉強会に積極的に参加する俳人が増えてきた。歌人は、あまり俳句を読まない。あまりに季語を知らない。

そういう意味でも実に興味深いふたつの座談会であった。「オルガン」はいつも短歌の問題を意識しているし、「ねむらない樹」の座談会は、お互いがお互いのジャンルに興味と敬意を抱いているようであり、これからの世代はもっとジャンルを横断していってくれる可能性を感じることができた。もちろん、わたしも引き続き考えていきたい。

 

参考:「オルガン」問い合わせ先 organ.haiku@gmail.com