「現代短歌」五月号を読んで考えた

去年六月に開催されたシンポジウム「ニューウェーブ30年」から引き摺っている「ニューウェーブに女性歌人は含まれるのか」問題や、ニューウェーブそのものの定義について、硬軟含めさまざまな意見や文章を読んだが、まだ自分なりにこの問題は消化しきれていない。ほぼ同時代を生きていたはずなのに、なぜこんなにわかりにくいのだろう。教科書的な文学史のようには見えてこない問題であるのはわかる。そしてそれは、どこかで、「前衛短歌に女性歌人は含まれるのか」問題や、前衛短歌そのものの定義について考えることと似ているような気がして、わたし自身のなかで思考が凍結しているからではないか、というようなことを漠然と考えていた。すると偶然(もちろん必然でしょうが)「現代短歌」の五月号が「前衛短歌考」という特集を組んでいるのを見かけて、みんな思うことは同じなのだなと妙に納得してしまった。

 

それにしても、「現代短歌」は攻めている。特集のメインの評論を書いている井上法子、雲嶋聆、三上春海の三人は平成生まれだという。永田和宏と三枝昂之による「前衛短歌の残したもの」という対談の誌上再録をしてはいるものの、「前衛短歌の〈私的定義〉」というエッセイを執筆しているメンバーもなかなか斬新な人選であった。読み進めながらなるほどと思ったり、気になったことをいくつか、今月は考えてみたい。

 

特集の評論では三上春海の「「極」/現在」に注目した。「短歌の〈サブカルチャー化〉」という視点である。

短歌の〈サブカルチャー化〉(というものがもしあるとしてだが/この部分に傍点あり:筆者註)の要因として、〈文学〉〈芸術〉といった共同幻想の衰微を指摘しないわけいにはいかない。(中略)穂村弘は『短歌の友人』(河出書房新社、二〇〇七)において、「〈私〉の拡張」「言葉のモノ化」など前衛短歌のレトリックは、高度成長期以降、「戦後的な共同幻想」に対する〈武器〉から、経済的な豊かさと結びついた〈玩具〉に変質していったと記述している。この指摘には、前衛短歌こそが、短歌をサブカルチャー的〈玩具〉に変えしめた直接のトリガーである、というアイデアがねむっている。

なるほど。前衛短歌を「短歌のサブカルチャー化」の起点と見るとき、それを受け継ぎ別の方向へ発展させたのが「ニューウェーブ」だった、という見方には説得力がある。しかし三上春海は続ける。

前衛短歌を継ぐ試みとして〈ニューウェーブ〉がしばしば言及されるが、昨年から巻き起こっている〈ニューウェーブに女性歌人はいないか〉の議論など、果たして運動体と呼べるものだったのか、議論は尽きない。ましてそれ以降の歌人たちの営為は、便宜的に〈ポスト・ニューウェーブ〉と呼称されたこともあったが、これまでのところひとつの運動体としてまとまる(まとめる)動きはみられない。

共同幻想の衰微が、ひとつの運動体を形成する力にも及んでいると、三上春海は指摘する。そのかわりに、「既存の体制に反意を唱え変革を迫ろうとする〈運動〉という概念自体は現在も効力を失っていない」として、「瀬戸夏子、服部真里子、大森静佳、川野芽生らの〈性〉と〈暴力〉をめぐる積極的な論作や、永井祐、今橋愛、山川藍らの〈口語〉の修辞の拡張は、それぞれに固有の運動性を有している」とみなす。ただしこれらは「運動体というより、点在する個人の自発的な営為が大きな流れになっていくという、自然発生的な流行、現在の言葉でいえばバズ(Buzz)に近い現象」を現在の短歌界に見ている。もちろん、時代が進めば、ニューウェーブやニューウェーブ以降の現代に、なにかまとまった動きを見ることが可能になるのかもしれない。とはいえ、これまでの文学史的な視点では捉えきれない、流動的なものが今起きていることを予感させて実に興味深かった。

そんなことを考えていたら、「前衛短歌の私的定義」のほうで荻原裕幸が似たようなことを書いていた。

…昨年から、ニューウェーブの定義をほぼ抜きにして、誰がそれに該当するのか的な話が、奇妙なほどの広がりを見せていて、短歌史というものをどう考えるかについて、新しい観点から議論したくなったからである。前衛短歌からニューウェーブまでを、一連の流れとして見るような短歌史的ビジョンを、どこかで議論してみたい。(荻原裕幸「前衛歌人は誰でしょう?」)

前衛短歌からニューウェーブまでを一連の流れと見る短歌史的ビジョンのひとつとして、三上春海は「短歌の〈サブカルチャー化〉」を提出している。そして三上春海の視点は、その先、ニューウェーブ以降に向いている。案外、ニューウェーブについては、「ニューウェーブ以降」を見ることでわかってくることがあるのかもしれない。

 

ほかにも、楠誓英による「関西の「表現主義」」に瞠目した。言われてみれば、「関西には、塚本邦雄、山中智恵子、前登志夫といった前衛短歌の流れがある。しかも、彼らの始源は前川佐美雄である。関西歌壇の「表現主義」にはモダニズム短歌から前衛短歌までの実績が有形無形に影響を与えている」のだ。豊橋の岡井隆も、広い括りでは「西」である(寺山修司だけは東北だが)。こういった地域性による資質(?)の違いというものも、なにか理由のあることに思えてならない。

 

それにしても「現代短歌」は攻めている。比較的若い世代による連載などに誌面を割いているだけではない。来る5月12日には、『実録・現代短歌史 現代短歌を評論する会』を読むつどいを企画している。登壇者は小島なお、寺島博子、富田睦子、濱松哲朗、三上春海、阿木津英(司会)の各氏。新しい短歌評論の書き手を育てたい、という思いの伝わる企画である。

さらに、この五月号には石井辰彦の巻頭作品「(美を見失ふ)」が掲載されているが、その歌数はなんと一四四首である。これまでの短歌の総合誌にはありえなかった歌数ではないだろうか。銀色の横縞を配したページデザインも凝っており、この一大叙事詩のような大連作に華を添えている。こういった、既存の短歌総合誌における暗黙の序列に抵抗する大胆な試みは、これからもなされていくだろう。書き手の偏りを指摘されることもあるが、どこかに偏らない雑誌などないのだから、編集長の真野少氏にはこれからも大胆にがんばっていただきたい。