「平和園」とはなんなのか

小坂井大輔の第一歌集『平和園に帰ろうよ』(書肆侃侃房)が刊行された。いまや〈短歌の聖地〉と呼ばれる「平和園」。そこで働いているのが、小坂井大輔である。

  起こさないようにそおっと腕を抜くまでが腕枕だよ、廣野くん

  雨を降らせるひとが目覚める夕方に小佐野彈から届く月餅

読んでいくと、こんな歌に出会う。「廣野くん」とは、「塔」の廣野翔一であり、愛知県で働いていた彼は「平和園」の常連でもあった(現在は東京在住)。「小佐野彈」は「かばん」の小佐野彈で、第一歌集『メタリック』で今年度の現代歌人協会賞を受賞している。台湾在住だが、「平和園」には早い時期から何回も訪れているという。

歌集中、名前が登場する歌人はふたりだけ。しかし、この「平和園」には実に多くの歌人が訪れ、最初の頃はなかば冗談のように〈聖地〉と呼んでいたのが、いつのまにか名実ともに〈短歌の聖地〉となってしまった。

さて。「平和園」とはなんだろう。

それは、名古屋駅西口にある、ごくごく普通の中華料理屋である。「短歌研究」(2018年4月号)で「不思議な歌の国・名古屋」が特集されたとき、「平和園の謎に迫る」という漫画が掲載され、知名度はぐっとあがった。とはいえ、知らないひとにはなぜこの中華料理屋が〈短歌の聖地〉と呼ばれるまでになったのかはいまだに謎だろう。今月はそのことを考えてみたい。

小坂井大輔は、1980年名古屋生まれ。彼の実家が「平和園」である。小坂井大輔と短歌との出会いは、歌集『平和園に帰ろうよ』の加藤治郎による解説「聖地の始まり」にくわしい。ダイジェストすると、大学卒業後「平和園」の仕事に就き、三十歳のときに主催した朝活読書会で戸田響子と出会い、彼女がその読書会に持ってきた穂村弘の『短歌という爆弾』で短歌と出会う……。そう、戸田響子こそ、小坂井大輔を短歌へと導いた張本人であり、ふたりは同じような時期に穂村弘のいる「かばん」に入り、名古屋でのカルチャーで加藤治郎と出会ったことから「未来」に入会し、同じく名古屋にずっといる荻原裕幸と「東桜歌会」で出会う。荻原裕幸や「かりん」の辻聡之たちとの出会いは、その後「短歌ホリック」という同人誌にもつながる。そしてこの四月に、ふたりは同時に第一歌集を刊行した(戸田響子の歌集は『煮汁』(同じく書肆侃侃房))。〈注1〉

「平和園」に歌人が集いはじめたのは、2010年代の半ば頃からのようだ。たかだかここ4~5年のことであるが、幅広く歌人たちが訪れるようになったのにはいくつか理由が考えられる。

まずは「平和園」が名古屋にあるということだ。名古屋はかつて〈短歌の首都〉と呼ばれた時代があった。1980年代、名古屋には春日井建、豊橋に岡井隆がいた。「中の会」という超結社の集団が主催するシンポジウムが頻繁に名古屋で開催されていた。〈注2〉

その頃、加藤治郎や荻原裕幸、穂村弘の三人がニューウェーブと呼ばれ、加藤治郎と荻原裕幸は名古屋にいた(ついでにいえば、穂村弘も中学高校は名古屋で過ごしている)。名古屋には、短歌にとって中心となる基盤のようなものがすでにあったのだ。さらに言うなら、名古屋は京都にも近い。「平和園」がもし東京にあったとしても、今のような「聖地化」はしていなかった気がする。とにかく、名古屋、なのだ。

次に、小坂井大輔が「かばん」と「未来」、両方に所属しているということだ。「かばん」と「未来」に所属する歌人は、ほかにも中沢直人がいるし、古いところでは東直子がそうであった。同人誌と結社という違いはあるが、両者は似通う部分があるのだろうか。あるいは違うからこそ、両方に所属したいと思わせるのか。いずれにせよ、両方であるということが、それぞれの結社(同人誌)のひとを呼び寄せる。そこからまた輪が広がる。

さらに、SNSの存在も大きい。ここ十年くらいのSNSの隆盛は、あきらかに短歌の様々なシーンを変えている。「平和園」にとっても、SNSの影響は大きい。「平和園」を訪れた歌人たちが、黄色い看板や餃子の写真をTwitterに載せたり、誰それと一緒、などとツイートする。そんな投稿を目にすることが増え、いつか自分も名古屋に行ったら「平和園」に行かなくては! と思うようになってくる。

わたしが初めて「平和園」に行ったのは、2016年の10月のことだった。そのときは荻原裕幸や辻聡之、廣野翔一、ルイドリツコ(現在「未来」、当時は無所属)などが来てくれた。その一年後、再び訪れたときは、名物の記名帳が二冊目に入っていただろうか。書かれた名前を眺めているだけで、現代短歌の全貌が見渡せるくらいの、多くの歌人たちが、まさに老いも若きも「平和園」を実際に訪れている。その記名帳、現在は五冊目だという。

これまでも歌人の働く飲食店はあっただろう。しかしこの「平和園」ほど幅広くひとを集客した店はなかったのではないだろうか。

俳句には、わりと俳人の集まる店がある。古くは鈴木真砂女の「卯波」、最近では伊藤伊那男の「銀漢亭」が有名だ。俳人は集まると、飲み食いしながらでも句会をやりたがる。「平和園」に集う歌人たちは、ただ飲んで食べてしゃべっているだけのことが多い。「平和園」に行けば、いつも小坂井大輔がいて、さらに誰かしら歌人がいて、短歌の話ができる。それだけでいい場所。インターネットで世界中のひとと簡単につながれる時代に、わざわざ電車に乗って、新幹線で、足を運んで餃子を食べに行く。そんな〈聖地〉があってもいい。

最後に戸田響子についても書いておきたい。

戸田響子については、小坂井大輔よりも謎が多い。彼女がどんなふうにして短歌と出会ったのかはわからない。いつの間にか、新聞の短歌欄の投稿や、あらゆる新人賞等の候補として名前を見るようになった。彼女の活躍を小坂井大輔は伴走するようにして、あるときは同士として、あるときはライバルとして意識し続けていただろう。それは戸田響子にとっても同じだったかもしれない。彼女にも「平和園」は、心の拠り所としていつもそこにあったに違いない。歌集『煮汁』より一首を引く。

  ラーメンの湯気立ち昇りこの麺はどこか遠くにつながっている

今夜も「平和園」では、誰かと誰かがつながって、第二第三の小坂井大輔と戸田響子がラーメンを啜っているにちがいない。

 

〈注1〉小坂井と戸田はほぼ同時に「未来」と「かばん」に入会しているものだと思っていたが、くわしく聞いてみると、小坂井の「かばん」入会が2014年、「未来」入会が2015年。戸田は「未来」に2015年、「かばん」が2016年と、微妙に後先もずれていることも興味深い。

〈注2〉岡井隆を中心とした同人誌「ゆにぞん」も、活動の中心は名古屋・豊橋だった。