同世代、同時代

「同時代」を考えるとき、それは僥倖だと思う。たとえば寺山修司や塚本邦雄と同時代に生きていたことは、単なる偶然を超えた価値のあることだと信じたい。それはすでに「過去」としての同時代であるが、現在でいえば、岡井隆や馬場あき子だけでなく、自分より若い世代、斉藤斎藤や工藤玲音と同時代であることも、わたしにとっては貴重なことだ。

 

「フワクタンカ」という同人誌がある。「フワク」は「不惑」、すなわち40歳である。40歳になった歌人たちが立ち上げた同人誌で、1977年生まれの歌人たちのものが2017年に刊行されたものが最初。メンバーは、内山晶太、黒瀬珂瀾、齋藤芳生、染野太朗、田村元、盛田志保子、山内頌子である。翌年は1978年生まれの歌人たちが、同じ「フワクタンカ」というタイトルの同人誌を刊行した。そのメンバーは大石聡美、大久保一布、大澤サトシ、岸野亜紗子、桜井夕也、佐藤博之、柴田香、スコヲプ、辻井竜一、中島裕介、西之原一貴、西巻真、伴風花、東こころ、丸山朱梨、柳澤美晴。そして今年も「フワクタンカ」は本条恵、栗原寛、三原由起子、天道なお、澤村斉美、佐佐木頼綱、大塚亜希、天野慶、工藤吉生、山本夏子といったメンバーによって刊行されている。

 

5月9日の「一首鑑賞 日々のクオリア」で生沼義朗が、平成7年生まれによる短歌同人誌「はなぞの」を紹介したうえで、こんなことを書いている。

 

最近は、1971(昭和46)年生まれによる「ないがしろ」、1973(昭和48)年生まれによる「OCTO」、1996(平成8)年生まれによる「ぬばたま」、あるいはその年に40歳を迎える歌人が競詠し、毎回メンバーが替わる「フワクタンカ」など、年齢属性による同人誌やアンソロジーが増えた。

 

同い年という属性は名前を並べているだけでも興味深いが、ことに40歳という年齢は、絶妙だ。どんな経緯があったとしても、40歳で短歌にかかわっているということは、おそらく一生の問題としてそれぞれの前に短歌があるのではないだろうか。単なる偶然として同じ年に生まれ、たまたま同じ短歌という場で出会い、四十歳という節目に、近くに立っているひとたちがいる。しあわせなことだ。

 

「フワクタンカ78」と「フワクタンカ79」については、生沼義朗が5月28日30日にそれぞれ作品をとりあげてていねいに紹介しているので、そちらを参照してもらいたい。

 

今回わたしがとりあげたいと思っているのは、「外出」という同人誌だ。5月5日に創刊号が出たこの小さな雑誌は、内山晶太、染野太朗、花山周子、平岡直子の4人による。同人紹介には、それぞれの生年と出生地が記されているのみ。内山晶太と染野太朗は1977年、花山周子が80年、平岡直子が84年と、7歳ほどの年齢差がそこにはあるが、ほぼ同世代といってもよいだろう。所属結社の違う4人(しかも染野は現在大阪在住である)が、どういう契機でこの同人誌を立ち上げることになったのか、非常に興味深いけれども、作品14首(内山だけが15首)とミニ評論(花山だけが長めのエッセイ)が載っているだけで、創刊号にありがちな「言挙げ」的なものは一切ない。それでも、この4人の名前を見ただけで、ワクワクする。「外出」という雑誌名もいい。それぞれの現在いる場所(住居だったり所属だったり)から、少しだけ外に出たり他所に出かけたりする、という意味合いがあるのだろう。

 

まず、内山晶太の作品「ギンビス」を読んだあとに、染野太朗の作品タイトル「キャラメルコーン」で笑ってしまう。

 

昨夜の帰宅、今夜の帰宅ギンビスのアスパラガスのつづきを食べる/内山晶太

 

ちからこめてキャラメルコーンの袋ひらくあはれあのかたちにほひいろあり/染野太朗

 

不惑を超えた男子ふたりが、真剣にお菓子と向き合っているさまがおかしい。

 

 

私の手がふさがって娘が持ってあげるよと言う ほ ほけきょ/花山周子

 

卵を入れよとうるさく沸いたお湯のなか学帽を投げあげる人たち/平岡直子

 

花山周子の作品はどんどん自由になっていく。たぶん本人は、自由になりたくてその方向に行っているのではない、という気もするが、いつも新しい花山周子に出会う。平岡直子の作品世界も独自の方向にある。見えないものが見えて、見えているはずのもののほうが幻になってくる。

 

文章も面白かった。染野太朗は『林檎貫通式』について

 

ここまで書いてようやく僕は『林檎貫通式』の文体について語ることができる。(略)しかし例えば「いやでしょう」「ばかあちこちすき」「蟻がたかるからよ」と言われて僕が受け取ったのは、意味内容ではなく、体感そのものだった。次はやっとそこから語れる。『林檎貫通式』はいつでも、僕のずっと先を行っている。

 

と語る。この文章に「1」とついている理由だ。続きを期待したい。

 

平岡直子の「短歌には足し算しかない」という小論のふたつめ、宝川踊の〈戦争はきっと西友みたいな有線がかかっていて透明だよ〉について「戦争のような意味のつよい言葉は歌にとっていわば添付ファイルのようなもの」というところからの展開に注目した。「ただ、ファイルが壊れていてほんとうにそうなのか中身を参照できない」。「戦争」も「西友」も「有線」も、「壊れて開けないファイルのなかに入っている。ゆめみるような熱っぽい口調で、ファイル名だけが羅列される」と、この歌の透明さ、身体性のなさを指摘する。平岡直子の文章は実に明快だ。

 

内山晶太の森岡貞香論も、なぜ内山晶太にとって森岡貞香なのかということがよくわかる文章だった。

花山周子のはらはらどきどきするエッセイも、思わず引き込まれて一気に読み切ってしまった。

 

いずれも、それぞれの必然を真正面から語っていて、これはいい「外出先」ができたと思う。

 

文学フリマが盛況になったことも影響しているのだろうが、いくつもの興味深い同人誌が次から次へとできている。この「外出」にしても、単なる同世代の枠組みだけでなく、「たまたま」とか「偶然」といった要素で結びついたひとたちによるものかもしれない。それくらいの気軽さで、今は雑誌が出せる。そしてその「偶然」はかならず「必然」を生み出し、「時代」を写し出していく。それこそが「同時代」に生きているという意味であり、作者にとっても読者にとってもそれは僥倖なのだ。