田中槐


通俗性について

「週刊俳句」という、俳句のウェブサイトがあるのだけれど、その6月2日号30日号に上田信治が「それは通俗性の問題ではないか?」「ふたたび通俗性について」と題する時評(のようなもの)を書いている。とても長い文章(特に30日号)なのだが、いろいろなことを考えさせられた。

発端は、「俳句」6月号の神野紗希による時評における小川軽舟の句〈子にもらふならば芋煮てくるる嫁〉に対するジェンダー的批判である。ここで察しのいい方は、加藤治郎の件のミューズ発言を思い出すのだろうが、神野紗希の時評のタイトルが「ミューズすらいない世界でーー俳句とジェンダー」とあることからも、まさにそういう話なのである。ここに首を突っ込みたい気持ちをぐっと抑えて、今月はここで上田信治が指摘している「俳句における通俗性」の問題「こんなにも、俳句に通俗性がフリーパスで存在していいのだろうか」(太字は引用ママ、以下同、ということについて考えてみたい。

 

俳句における通俗性を考えるにあたって、上田信治が例にあげる小川軽舟の他の句と高柳克弘の句を見てみよう(便宜的に「通俗的」の対義を「高踏的」とした)。

小川軽舟の通俗的な句

平凡な言葉かがやくはこべかな

死ぬときは箸置くやうに草の花

晩春やわが鞄置く妻の膝

高柳克弘の通俗的な句

もう去らぬ女となりて葱刻む

小川軽舟の高踏的な句

水たまり踏んでくちなし匂ふ夜へ

燃えほそる燐寸の首や夕蛙

高柳克弘の高踏的な句

あぢさゐや日はいちにちを水の上

綿虫に平日の人どほりかな

なるほど、たしかに短歌よりも俳句のほうが、この通俗/高踏の対比はわかりやすいと思う。上田信治は、「「通俗」を定義するなら「表現物の価値(よさ)が、水準を低めに見積もった読者(=大衆)の、了解の範囲内にあること」とでもなると思うとしている。短歌よりも俳句は短いから、一読(一見)で誰にでもわかるような句はどうしても通俗性につながりやすい。短歌も、散文に比べればはるかに情報量は少ないが、一読してわからなかった歌を、何回か繰り返して読むことによってわかることがある(ほとんどのひとが、短歌は一読したあとまた戻って読み直すということをしているのではないだろうか。まあ、俳句はそういう行為を全くしないというわけではなく)。※わかる/わからないと通俗的/高踏的の問題はまた微妙に違うので、ここでは深追いしない。

 

このあと6月2日号では「結社」の問題につながっていくので、ここでは30日号のほうへ飛ぶ。

30日号でも上田信治は小川軽舟の〈死ぬときは箸置くやうに草の花〉を通俗的だとし、「草の花」という季語について「この季語は、ちょうどよすぎる。ちょうどよすぎる季語は、書き手が、既にその願いの外に出てしまっていることを疑わせる。そのため、せっかくの泣けるフレーズが「ウケ狙い」に見えてくるという。「そもそも「死ぬときは箸置くやうに」は、ごく常識的な道徳の範囲内から生まれたフレーズで、書きようとしてはコピーライティングに近い」ともいう。

短歌には季語にあたるものがないので、このあたりはわかりにくいかもしれない。ただ「コピーライティングに近い」というのは、短歌の評(批判的な)としてよく耳にするフレーズだ。

さらに上田信治は、久保田万太郎の〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉や福田若之の〈ヒヤシンスしあわせがどうしても要る〉は通俗的ではないとする。

「いのちのはてのうすあかり」は、たしかに俗謡の範疇のフレーズで、誰にでも理解できる内容と、誰にでも理解できる美しさをもっている。しかし、この湯豆腐の美しさはこの句一回限りで二度とないものだ。いのちのはての「うすあかり」が豆腐の白の奧に見出されるようであるのは、「はて」という言葉のはたらきによるもので、この言葉が、ただじっと見つめるということをしている主人公を、浮かび上がらせている。

(中略)

「しあわせがどうしても要る」は、一見、四畳半フォークにもありそうな平凡な感慨に見えるけれど、この「要る」は「しあわせ」に対応する動詞として、違和感がありすぎる。しあわせは「ほしい」とか「願う」という動詞をとることが多いけれど、「要る」という、まるで当座の生活費が必要だというような、ねじを回すためにねじ回しが必要だというような、対象の局所的な不存在を前提とした言い方が、この人の「今」がひどく切迫しているということを、浮き彫りにしている。

(中略)

どちらの句も、歌謡曲的な共感性をもつフレーズをベースに(一次的「内容」に)しているけれど、俳句として立ち上がるときに、ベタな内容の底を抜くようにして、それを、誰にでも分かり、かつ、とんでもなく深いという高みに引き上げ、新たな価値を生み出している

とし、結論的に「ドラマチックな出来事や背景、感情に対する共感といった、俳句の外でも「値段」のつくような「内容」を持つ俳句がある。しかし、もし、その句が、その一次的「内容」を超える何かをつけ加えることに失敗していたら、その句は「内容」に(あるいは俳句外の価値に)寄りかかっている。/そういう句を、自分は通俗的だと感じるという。

このあたりは短歌においても同じことがいえるだろう。「一次的「内容」」については、「常套的」「手垢のついた表現」として、歌人がもっとも忌み嫌う表現につながる。

 

通俗性の話として、上田信治は最後に「通俗のなにが悪い、と問われたら、俳句全体のシリアスさが減るから、と答えると、「シリアスさ」について言及している。

自分は、俳句の庶民性や現実に取材するアクチュアリティあるいは諧謔や遊戯性を、軽視しない。自分の書くものについては、現代性と冗談を失わないようにと、それだけは気をつけているつもりだけれど、同時に、俳句「全体」が通俗にかたむき、シリアスさを失うことを、おそれている。

これもよくわかる話であるのだが、問題を短歌に移行して考える場合、少し論点がずれるように感じるのはわたしだけだろうか。短歌よりも俳句のほうが、軽みとか諧謔とかユーモアとかが詠まれやすい、という印象がある。短歌は、それらをあまり得意としない。圧倒的にシリアスな作品が多い。「現代性と冗談を失わないように」と心がけて歌をつくっているひとがどれくらいいるだろう。むしろ、「通俗性」そのものが、短歌においては徹底的に排除されてきたのではないか。ただ、では、奥村晃作の「ただごと歌」はどうだろう。ライトヴァースはどうだろう。このへんも、俳句と短歌の根本的な違いにつながるのだろうか。いろいろ考えてみたいことが芋づる式で出てくる。

さらに言うなら、この問題に関しての上田信治の指摘する「結社」の問題は、短歌にはあまりあてはまらないように感じている。俳句の結社の主宰と、短歌の結社の主宰(そもそもそういう呼称でよばれることもない。発行人とか、代表と呼ばれる存在)はあまりにも違う。そのあたりの問題も、考えてみたいとずっと思っている。

 

今月は引用ばかりで、結局上田信治が何を言っているかの紹介みたいになってしまった。こういう作業は自分の考えを整理するにはいいのだけれど、何かが伝えられたことを願うばかり。

 

引用ついでに「週刊俳句」6月16日号の山口優夢の【俳誌を読む】「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」のなかの、先に紹介した神野紗希の時評に対する反応(ジェンダー論ではありません)に大きく共感したので長くなるけど貼っておきます。お時間のあるひとはお読みください。

このことに関連して、むしろ僕が問いたいのは、俳句で何が書けるのか、俳句の限界論とでも言うべき視点だ。ざっくりした論になるのは承知で話してみるが、俳句という短い言葉が作品として成り立つ背景には、日本人という同質な民族の文化があると考えている。その代表が季語である。ある季語を入れたとき、そこから思い浮かべる情景や風情にある程度の共通理解があるからこそ、短い言葉を作品として成立させることができる。「秋風」はさびしい、「桜」ははかない、など。その凝り固まった概念を打破するために正岡子規が写生を提唱し、それは今も息づいていると思うが、それは季語の象徴性を全く否定しさるものではなく、むしろ強化する側面もあったのではないかと思う。

共通理解、といったときに出てくるのは季語だけではない。

玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉

春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子

牛乳飲む片手は腰に日本人 山本紫黄

これらの俳句は「終戦時の玉音放送は大変聞き取りづらかった」という歴史的事実や、「春はあけぼの、とは枕草子の一節で、それをきぬぎぬの別れに転化している」という教養や、「銭湯で牛乳を飲むときは片手を腰にあてるという一場面が懐かしさを誘う」という情緒を前提としている。そういうものがないと分からないのが俳句の弱さだ、とは言わない。それも含めて俳句であるという事実に対して、プラスの評価もマイナスの評価も個人的にはない。

ただ、俳句はすでにある価値観やある程度広まっている共通の過去にしかコミットできないというところに限界があるのではないかと考えている。これはつまり、俳句から新しい価値観を作り出すことはできないのか、という問いだ。小川が旧弊な価値観を引き写した句を書いていることと、これは無関係ではない。先に述べたかぎかっこをつける、という提案は、この問いに対しては答えになり得ない。渡辺の「玉音」の句だって、玉音やそれにまつわる日本の天皇制に対するアンチテーゼとして機能しているのは明らかだが、それは肯定か否定かの違いであって、過去のすでにある価値観に対するリアクションであることには変わりはない。

わたしはずっと、短歌と俳句は「似ている」、というよりは「違う」という観点からみないといけないと思っている。その「違い」が何なのかをもっと考えなくてはならないのかもしれない。

 

さらなる蛇足のようなものですが、「週刊俳句」では、小池純代さんの都々逸に関する連載も始まっています。このサイト、本当に侮れないのです。