田中槐


口語短歌の可能性

このところ、必要があって口語短歌について考えているのだが、自分がこれまで抱いていた口語短歌の概念の更新からしないといけない気持ちになることが多い。

「井泉」七月号のリレー評論のテーマは「現代短歌に欠けているもの・過剰なもの」であったが、三上春海の「欠けてはいないが〈偏り〉はあるーー語彙の延伸」という文章にもおおいに刺激された。そこで三上春海は「おそらく現在の短歌にもっとも頻繁に見出される偏りは口語と文語(と呼ばれるもの【と呼ばれるものに傍点】)の偏りではないだろうか」として、現在の短歌が口語に偏りつつあることを指摘している。三上春海が参考にしているのが書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」やネットコミュニティにみられる短歌であることから、そもそもそこに偏りをみてしまうこともできるのだが(たとえば、より統計的なデータを提示するためには、少なくともここ数年にわたって刊行された歌集あるいは発表された短歌の口語/文語率を数的に比較する必要があるだろう)、わたしが注目したのは、おもに藪内亮輔の歌に見出される〈口語文法〉に〈文語語彙〉を取り込んでいることへの指摘である。

  牙のような炎を点【つ】けて水を煮るわたしはわたしの飮食【おんじき】のため
  うざいだろ? それでいいんだ蒼穹【おほぞら】にゆばりを流しこんでる。神も

                     藪内亮輔『海蛇と珊瑚』
ここに引用した歌は浅野の定義(筆者注:「Tri 第6号」浅野大輝の論考「数値から見るサラダ記念日」における〈文語の使用〉の判断基準)によれば〈文語の使用〉が認められない〈口語短歌〉になるだろう。しかし「飮食(おんじき)」「蒼穹(おほぞら)」「ゆばり」などの語彙、二首目については加えていえば岡井隆の「蒼穹の蜜」のイメージも重ねられ、〈口語文法〉に則った歌でありながら〈文語調〉の空気が厚塗りされている。

そこで三上春海は現在の短歌を以下の四象限に分類する。

1 〈文語文法〉+〈文語語彙〉
2 〈文語文法〉+〈口語語彙〉
3 〈口語文法〉+〈文語語彙〉
4 〈口語文法〉+〈口語語彙〉

こう分類されてみると、たしかに現在の短歌は圧倒的に2と4にあてはまり、藪内亮輔のような3のタイプはかなり特殊に見えてくる。三上春海はそこに「口語短歌における語彙の延伸【語彙の延伸に傍点】」をみている。

三上春海はこのあと、〈文語語彙〉に限らず、独自の語彙の追求の重要性を説いていくのだが、わたしはこの〈文語語彙〉というものにずっとひっかかっている。現代短歌が、後生大事に守ってきたものこそ、この〈文語語彙〉なのではないかと。

藪内亮輔の歌でいえば「ゆばり」という語。「尿」とはいわずに「ゆばり」というような語彙が、短歌にはたくさんある。わかりやすい例は「厨(くりや)」であろう。短歌には「厨歌」というジャンルまで存在するが、日常生活で「厨」という語が使われることがあるだろうか。「ゆばり」という語を使うだろうか。現代の小説に「厨」や「ゆばり」という語が出てくるだろうか。現代詩にもないかもしれない。俳句や短歌にだけ、生き延びている語彙というものがたしかにある。(注1)

近代短歌を読んでいると、そういった旧い言い回しに出会うことがある。出会ったらつかってみたくなる。「朝戸出」という語は万葉集が出典だが、サラリーマンの夫の出勤の風景を「朝戸出の〜」とうたうと、なんだか新鮮な響きが加わるような気になる。そうやって、〈文語語彙〉は、現代の韻文文芸に根強く居残り続けているのではないだろうか。そういう意味で、三上春海が大辻隆弘の論考「調べから韻律へ」において、「単に「ことばの音声的な側面」ではなく、「ことばの意味と音声が調和的な統一感を生み出す」ことで生まれる「存在論的」な対象であったことを指摘している」ことに対して「このような調べ観は現在にも少なからず息づいているようにおもう」と感じているところは大きく賛同する。

三上春海が指摘するほどではないにせよ、たしかに口語の短歌が増えてきている。その背景には、そういった〈文語語彙〉のようなものの継承への拒否感があるのだろうか。

「短歌」五月号の特集「ヘビーヴァース」における寺井龍哉の「口語に、乞うご期待」という論考で、寺井龍哉は口語短歌を「日常の会話と地続きの調子で理解できる作」としている。この時点で「厨」や「ゆばり」を読み込んだ歌は口語短歌のふるいから抜け落ちるわけだが、寺井龍哉は「最新の口語的な文体」について、「既存の短歌らしさを抜け出してより徹底した現実主義を目指すために、既存の短歌らしさを構成していた文体の改良が必要となる」という。
ここで指摘されている「既存の短歌らしさ」のひとつとして、〈文語語彙〉もあるだろう。「厨」や「ゆばり」や「朝戸出」は「徹底した現実主義を目指すために」は選ばれることのない語彙であろう。

寺井龍哉が永井祐の歌の文体に「現実主義の徹底」をみるように、真のリアルを追求していくためには、口語短歌には現代/現実を表現できるような文体が求められる。一方で〈文語語彙〉を口語短歌における語彙の延伸のひとつ、と捉えるのであれば、三上春海が指摘するように、口語短歌は〈文語語彙〉よりももっと異質なものを取り込むことによってこそ、開かれていく道があるのかもしれない。そして、さらに、また別の道があるのかもしれない。これまで指摘されてきた口語短歌の弱点としての文体の平板さや語尾の単調さなどとは、もはや違うレベルで口語短歌が発展しつつある。その可能性を考えることは楽しい。もちろん、〈文語語彙〉を守っていきたいと思う心も、わたしにはあるのだが……。

 

(注1)俳句においては「季語」のほとんどが〈文語語彙〉であるし、短歌の枕詞も〈文語語彙〉の最たるものだろう。しかし短歌においては、枕詞はむしろ新しい語彙としての利用も工夫されている例があるが、俳句が口語化することの圧倒的な難しさは、やはり季語にあるとも思う。この課題は現時点では大きすぎるが、考え続けなくてはならない問題だろう。