田中槐


もっと時評を

このコラムも時評の類だと思うけれど、毎月(あるいは毎週)、総合誌や結社誌、Web媒体などで膨大な数の「時評」と呼ばれるものが書かれ、読まれている。「時評」に特に決まった定義はなくて、新刊紹介みたいなものもあれば、ひとつの話題が大きな論争に発展するものもある。ただ、その時々の話題に過敏に反応しているものが多いせいか、時評集のようなかたちであらためてまとめて刊行されることは少ないのが現状だろう。注1

そんななか、土岐友浩の「サーキュレーターズ 短歌時評」が個人誌として編集発刊されたのは、やはり特筆すべきことだろう。連載されていた媒体が、あまり多くの歌人の目に触れることのない詩の季刊誌「びーぐる」であることも、刊行の理由のひとつにはなったと想像される。

 

土岐友浩は「はじめに」でこんなふうに語っている。

詩の読者のための短歌時評という機会を与えられて、僕が自分に課したことはふたつ。ひとつは現代短歌の注目するべき作品を、できるだけ幅広く取り上げること。もうひとつは短歌形式の本質を掘り下げていきながら、詩との差異を明らかにしたい、ということでした。

媒体の問題は大きい。「びーぐる」の読者層が、どれくらい現代短歌に興味をもち、実際に読んでいるかがわからないところで「時評」を書くということは、おのずと「短歌とは何か」という本質論に近づくことになるのではないだろうか。土岐友浩はそこに気づいたからこそ、この2年間の連載をまとめて、あらためて短歌の読者にも差し出そうと思ったのではないか。

 

全8回のタイトルは、「自由律について」「詞書について」「結句について」「一字空けについて」「字足らずについて」「大破調について」「関西弁について」「夕暮れについて」である。6回目まで、短歌独自の抱える問題の王道、とまではいかない、少しずらした、しかし大事な問題を扱っている(「関西弁について」は関西に暮らす土岐友浩ならではの視点だ)。

特に初回の「自由律について」には、土岐友浩の問題意識が如実に出ている(出過ぎて論点が拡散傾向にあるのは、初回に対する気負いも関係しているだろう)。「自由律」というよりはむしろ「韻律論」への言及が多いが、堂園昌彦、吉岡太朗、瀬戸夏子という3人の作品から、「文体も内容も、互いに似ても似つかない。それぞれが独自の韻律感覚を持ちながら、にもかかわらず、その「画面」は破綻へと傾いているところに、僕はどこか現代短歌の陥穽を覗きこむような思いがする」と、「破綻」の方向をみているところなど、土岐自身の韻律観をもっと展開させてもよかったのではないか。

 

どの回も面白く読んだのだが、「現代短歌の注目するべき作品を、できるだけ幅広く取り上げる」といっているわりに、取り上げられている作品はかなり偏っている。土岐友浩と同世代の作者に興味がいくのは当然であるし、それが一概に悪いことだとも思わない。たとえば、わたしを含む先行世代にはなかなか読み解きにくい、仲田有里の歌集の読み方の指針を与えてくれているのはありがたいことだ。仲田有里の特徴を、土岐友浩は「字足らず」に読み取り、千種創一の作品と対比させることによって千種の作品世界をも詳らかにした。さらに仲田有里の『マヨネーズ』を「フェミニズムの歌集だ」と結論づけたことも重要な指摘だと思う。わたしは、この歌集を読み切れいているとはまだ思えていないので、今後さらに議論が深まっていくことを願いたい。

 

仲田有里と同様に、五島諭の作品についての言及も見逃せない。

夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね/五島諭

この歌は、かねてよりわたしにとって一番わからない五島諭の歌なので、この歌について書かれている「大破調について」は何回も読んだ。土岐友浩は、佐々木朔の評論「定型における交換可能/不可能性について」に依りながら、この歌について「未来ではあらゆることが起こりうること、つまり不確実さへの絶対的な確信が、この歌にはこもっている」(佐々木朔)という観点から、「短歌や俳句の批評では、語がゆるぎないこと、「動かない」のがいいことと考えられてきましたが、そもそも世界が不安定で不確実なのだとすれば、言葉も不安定で不確実であるべきだ、という立場もありうる」と、批評のパラダイムシフトを打ち立てる。五島諭のこの歌の「地震がきたら倒れるかもね」は、地震がこなくても倒れることがあるかもしれないし、あるいは倒れないかもしれない。そういった無数の不確実性をうたった歌だというのだ(「無数の不確実性」に傍点を打ちたい気分です)。

 

そんなことに打ちのめされていたら、角川「短歌」10月号の「歌壇時評」で睦月都がやはりこの歌を引いていた。睦月都もこの歌を含む五島諭の歌集『緑の祠』について「刊行当時に読んだとき、全く歯がたたなかった。(中略)根本的に読み方がわからなかった」という。

わけのわからないまま五周も十周も読みながら、私はそこにあるはずの“何か”を探していた。何か、がなんなのかは自分でもわかっていなかったが、今思うとそれはいわゆる叙情性だったり、言葉どおりではない心理的屈折だったり、“合わせ鏡”がもたらすエネルギーの増幅だったように思う。

『緑の祠』は増幅しない。作者は非常に慎重に、自分の意図しない方向に勝手にイメージが溢れないように、正確に言葉を置いていく。

 

「増幅しない」

たしかに、短歌定型という器はアンプのようなもので、ほうっておくとどんどん増幅してしまう。その器の生理を理解したうえで、巧みに抒情や感情を微調整しながらうたうことが、短歌のひとつのテクニックだと、どこかでわたしも信じていた。垂れ流しの感性やびしょ濡れの抒情は排除される傾向にある。それでも残ってしまうわずかな「湿り気」さえも、過剰なものと五島諭の作品たちは拒んでいるのだ。そこまで短歌という詩型を追い込んで、短歌でしかうたえないものを模索しているのが五島諭だった。

 

睦月都によれば、五島諭の歌は「まだ裏で従来の定型意識を引き継いで見えた」が、そのあとに引かれた伊舎堂仁、鈴木ちはね、相田奈緒、谷川由里子といった歌人たちの作品は「より巧妙にその歌の出どころを隠しおおせている」という。出典は省き、作品と作者名だけ引用しよう。

ふりかえる昔のなかのどうやって食べていけてたのか謎な時期/伊舎堂仁

そのへんのチェーンではないお店より安心できる日高屋だった/鈴木ちはね

傾けると女の人が服を脱ぐしくみになっているボールペン/相田奈緒

とても軽そうな子犬が前足に落ち葉を絡めて歩いていった/谷川由里子

これらの歌について睦月都はこういう。

掲出歌はどれも三十一音でおおよそ三十一音分の情報を表現している。長い歴史の中で培われてきた短歌のインデックスを利用することもなく、言葉に必要以上の感情を乗せることもない。そこにあるのはシンプルな定型だ。

 

伊舎堂仁や谷川由里子、あるいは仲田有里の作品世界を読み解くヒントが五島諭の『緑の祠』にはあるのかもしれない。わたしは(あなたも)もう一度、『緑の祠』を読み直さなくてはならない。

 

土岐友浩と睦月都によるふたつの時評が、時期こそ違え、2013年刊行のこの歌集について、最近になってふたたび言及することの意味は単なる偶然ではないだろう。現代短歌はまた大きな価値観の変換を迫られているのかもしれない。

 

最新の話題に触れながら、その源流にあるものを掘り当てることが時評のひとつの役割である。時評はもっと読まれるべきであるし、どこかできちんと年度ごとにプールされていたらいいのにと、とんでもない手間暇を考えずにいってみる。さらにそうあるためには、時評筆者はもっと視野を広くもつべきであろう。広いだけでなく、掘り下げる力も必要だ。もちろん、自戒をこめて。

 

注1 短歌の時評集といって、記憶に新しいところでいえば『読みと他者』(吉川宏志/いりの舎)、『対峙と対話』(大辻隆弘、吉川宏志/青磁社)などがある。

 

※土岐友浩の「サーキュレーターズ 短歌時評」は、現在通販の申込みを一旦止めているようだが、一部書店での販売がされているとのこと。詳細は以下のアドレスに問い合わせていただきたい。[email protected]