田中槐


AIと短詩型

Eテレでやっている「又吉直樹のヘウレーカ!」という番組が好きでよくみているのだが、11月13日放映の回で面白いものを見かけた。それは「二次元小説」と呼ばれるものだ。

 

死体は、机にうつ伏せに寝た状態で発見された

に    も    見    置    は

も    た    え    い    ず

の    れ    た    た    だ

狂    て    の    が    っ

いの男が、留置されたが実際には、動いていた

に    め    実    私    。

走    て    は    が    嘘

っ    い    も    ま    だ

た    た    う    だ    か

私が刺したのは、まだギリギリに生きてたから

に    に    リ    命    で

残    其    シ    を    は

っ    は    ヤ    尊    な

た    私    神    く    い

物は、一つの小さな虫の箱だけに思えてきた。

の    薄    像    わ    悔

す    暗    の    な    い

べ    い    様    い    が

て    見    に    起    残

が、罪の意識を大きく感じさせる動力でもある。

 

ちょっと見にくいかもしれないが、これは、70通りの読み方ができるのだという。上から横に読んでいってそのまま下に読み下しても、縦に読んでから右に読んでいっても、あるいは途中でどんな迂回をしても(逆流さえしなければ)意味のある文章になる。これを眺めていて、短歌や俳句をつくるときもこのようなことを絶えずしているのではないかと思い至った。最初の五音がきまったあと、次の七音には限りない可能性の選択肢がある。そういった膨大な順列組み合わせのなかから、最善と思われる七音を選び取るというシステムを、わたしたちの脳はいったいどうやって構築しているのだろう。

 

少し古い記事だが、2018年12月8日(土)の朝日新聞読書欄に、坂井修一が「AIと文学」という文章を寄せていた。

 

今の人工知能(AI)は、論理的な思考を展開するのは得意だし、ディープラーニングなどで人間のまねを超高速でやることは上手。でもゼロから創作することはできない。レンブラント風の高度な絵は描けても、二十一世紀の新しいレンブラントになることは原理的に無理なのだーーそんな場所からどれくらい離陸できるのだろうか。

 

これを読んだときに、本当にそうなんだろうか、AIが人間並みの創作力を持つ日は未来永劫来ないのだろうか。かすかな疑問と相反する期待をもって、この記事を切り抜いてとってあった。

 

わたしが少なからずAIに興味を持つのは、2016年に人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)を発足させた美術家の中ザワヒデキ、彼の一連の活動を垣間みているからかもしれない。中ザワヒデキは、「人工知能が『美意識』を獲得する日

というインタビュー(アスクルみんなの仕事場「専門家に聞く」2018年12月12日)のなかで「近い将来にAIが美意識を獲得し、芸術作品を創出する可能性はあるのでしょうか」という質問に対して、こう答えている。

 

現在ある人工知能を前提にすれば、100%あり得ないでしょう。現状のAIはそのようなレベルには全然達していません。これは悲観して言うのではなく、事実として今のAIは弱すぎるのです。

 

さらに

 

近年の人工知能はディープラーニングによって飛躍的に能力を高めたと言われています。しかし、高まったのはあくまでも評価関数を他律的に与えた場合の「学習能力」にすぎません。美学に至るには評価関数を自律的に生成し「感性」を獲得することが必要になりますから、その方向性の基礎的な研究はあるにせよ、道のりははるかに遠いというのが現実だと思います。

 

ともいう。しかし、中ザワヒデキは「「美学」や「美意識」は、人間だけが持つ特権や神秘ではない」とも語る。「チンパンジーやボノボも自ら進んで絵を描く。であれば、今は他律的に「学習する機械」にすぎないAIが、将来において自律的に芸術を生み出すようになる事態を想定するべきだ」「人間も、超複雑かもしれなくても「機械」の一形態と考えるべきである」ともいう。

 

わたしたちも、生まれてすぐには文字すら書けない。学習して、トライ&エラーを繰り返して、誰かを真似したりしながら、なんとなくオリジナルな文章や歌を書いているような気になっているけれど、本当にわたしたちの書いているものは「ゼロからの創作」だろうか、と突き詰めて考え始めるとわからなくなる。

 

さて、短歌にも佐々木あららが発案・構築した、自動で短歌を作成してくれる星野しずるの「犬猿」というサイトがあったが、それをもう少し進化させたような「AI俳句一茶くん」というプロジェクトが進んでいる。この「AI一茶くん」の面白いところは、人間が写真をみて句をつくることがあるように、コンピューターが「画像データを基に俳句文字列を生成する」という機能を実現させようとしているところだ。つくられた俳句と、画像を紐づけることによって、なにか一歩すすんだことが起きそうな予感が(素人ながら)してくる。サイトには非常に興味深い「AI一茶くん」の学習方法が細かく掲載されているので、関心のある方はぜひじっくり読んで、AI俳句の未来に思いを馳せていただきたい。実際、今年の八月には、「AI俳句協会」なるものも発足している。

 

短歌よりも、俳句のほうがAIとは親和性が高そうだ。それは単に文字数の長短によるものが大きいことは確かだが、もうひとつ考えられるのは季語の存在だろう。一冊の『歳時記』のデータを入力するだけで、相当の名句のデータベースが完成する。実際わたしも、俳句をつくるときは『歳時記』を参照しながら、その季語に例句として挙げられている句を読んで、重ならない発想を展開させようとする。「切れを入れる」とか「季重なりにならない」とか、細かいルールがあるのもAIにとっては得意な分野で、きちんと守ってくれるだろう。類想句やパクリの発見もお手のものだろう。

 

連載の最後であまり多くの関心をひかなさそうな話題で恐縮だが、別にAIがすごいということをいいたいわけではない。AIのことを知れば知るほど、人間のすごさを実感するし、創作をしているときの脳のシステムが不思議でならない。

 

いつだったか、あるひとが「『歳時記』をみると、こんなにたくさんの名句がすでにあるのに、まだ自分にもつくれると思うって、俳人ってすごいポジティブだよね」といっていたことがある。まだ誰もつくっていない名句(名歌・名文)が、いつか自分からうまれると信じて諦めないこと、そのために数限りない駄作をうみだし続けること、それが創作ということなのかもしれない。だとしたら、諦めないという点ではAIのほうに勝機があるのかも……? まったくうかうかしていられない。

 

あっという間の一年でした。読んでくださりありがとうございました。