リアリティの重心

短歌という詩型は、発展よりも存続を上位に置くべき価値観が支配的である。本コラムを書き始めるにあたって、僕はまず、そのことを確認しておきたい。

この価値観の上下構造は、歌人個々の資質がどうであろうと、関係がない。短歌を選ぶことは、避けようがなく短歌の存続を選ぶことを意味する。短歌の発展を望む歌人が、しばしば苦しむのはこのためだ。

発展を望むことは、表現の自由を担保するだろうか。そうかもしれない。しかし発展の舵をとる人間の手に、権力が集中する危険がある。短歌はその存続を優先させるかぎり、ある特定の歌人に強大な権力を委ねることはない。ないと願う。

言い方を変えれば、絶対的な権力者を持つことなく、発展とは別の原理で短歌は変わり続け、現在まで生き延びてきたのだ。

こんな噂話がある。
 
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった   吉川宏志
 
一九九五年に発表された歌集『青蟬』の代表歌のひとつ。最近中公文庫になった東直子『愛のうた』(*1)でも、本の中で、いちばん最初に引用されている短歌である。

東は「花水木の並木を歩いていたときに、胸に秘めていた気持ちを告白したのだろう。花水木の花が咲く季節に、いつも思い出す歌である」と普遍性のある青春歌として鑑賞しつつ、三句目以降の表現手法に注目する。
 
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「告げられなかった」という否定を用いて、実際には告げることができた、ということを示唆しているのは、愛の告白という個人的な事柄の報告に対する照れがあるからだろう。ここに表現としてのポイントもある。(中略)「長くても短くても」には、「言いたい、でも言えない、でも言わなければ」と、その道を歩いている間中ずっと逡巡していた気持ちが込められているのである。(東直子『愛のうた』)
 
実を言うと僕は「長くても短くても愛を」あたりの字余りが引っかかって、「持って回った感じだなあ」「好き嫌いが分かれそう」と思っていたのだけれど、そこに主体の「照れ」や「逡巡」を読みとった東の評を読んで、はじめて一首がリアリティある作品として立ち上がってくるのを感じた。

ところが、だ。

鑑賞の前提である「否定を用いて、実際には告げることができた」という部分が、いまの若い人には共有されず、愛の告白の歌のはずが、愛を告げたいのに告げられなかった歌として、どうやら読まれているのだという。

その噂を、僕は歌人の集まりで何度か耳にした。他にも、昨年十二月に西南学院大学で行われた俵万智と松村由利子の講座で、この問題が取り上げられたようだ。講座に参加したある「二十代前半の女性」は、やはり「愛を告げなかった」と読んだらしい。(*2)

告白の場面と読んで誰も疑わなかった吉川の歌に、いま、告白はできなかったという新しい解釈が登場し、広まりつつあるのはなぜか。

それは若者の読解力の問題だろうか。

そうでなければ、何か大きな、とても大きな変化が、短歌に起きているのではないだろうか。
 
 
 
少し前の歌会で、こういう歌と出会った。
 
「別れよう」と言ったら君は「いいよ」って夕焼けみたいに笑うんだろう   小木曾 都
 
作者の小木曾は京大短歌会の現役会員。歌会では「夕焼けみたいに笑う」の比喩に好意的な評が集まったのだけれど、ある人が、主体の視点がわからない、と疑問を呈した。この会話は想像の会話なのだが、「別れよう」と言う「私」とそれを想像するメタ視点の「私」、読者はどちらに立てばよいのか。比喩を活かすのであれば、シンプルに「別れようと言ったら、君は夕焼けみたいに笑った」ではいけなかったのか。

その指摘から議論は作品の構造の是非に及び、一通りの意見が出たあとで、誰かがふと「でもback numberの歌詞なら、こういう視点もありえますよね」と口にした。歌会らしく、と言うべきか、みんながその一言で深く納得したような空気になり、back numberの話で大いに盛り上がったのだけれど、結論がback numberなんです、ではいけないので、歌会のあとに僕が考えたことを説明してみたい。

小木曾の歌は、たしかに一首全体が想像の世界で成立している。

けれど、メタな歌では、おそらくない。

メタとはつまり、想像する主体と想像された世界とが、次元的空間的に隔たっているということだ。

この歌のポイントはそうではなく、私と君のすぐ隣に想像の「私」と「君」がいる、そのような視点で発生するリアリティにあるのではないだろうか。想像の「私」は、言わばパラレルな「私」である。「君」に話しかけ、「君」は答える。想像の終わりとともに「私」は消えて、私は何も言わずに、君とたたずむ。

そう読んだほうが、想像世界の奥行きというか、私の胸中に広がる夕焼け、その存在感を見通せるような気がする。
 
ピクニックって想像上の生き物だそれにはあなたがいたりしていて   西村 曜
 
二〇一八年刊行の歌集『コンビニに生まれかわってしまっても』から(*3)。ピクニックを「想像上の生き物」と呼ぶことで、「あなた」とのピクニックが、ちょっとした空想の域を超えたかけがえのないファンタジーとして描かれる。結句の「いたりしていて」から、主体の感情の揺らぎが伝わってくるだろう。
 
コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい   西村 曜
 
これも想像の歌だ。上句で想像し、その想像世界の出来事が詠まれるという意味で、小木曾の「夕焼け」の歌と構造が似ている。「コンビニに生まれかわる」とはどういうことだろう。先のピクニックの歌を踏まえれば、「そこにあなたがいる、コンビニという想像上の生き物」だろうか。

西村の視点もまた、メタなものではない。ピクニック、コンビニ。そこにはパラレルな「私」がいる。想像の尊さ。もちろん有間皇子も、西行法師も、想像の歌を詠んだ。だが小木曾や西村の歌を読んでいくと、その想像力の重心が、現実と地続きのどこかにあるのを感じる。
 
孵化をするはずはなくても僕よりも若い硬貨を手にあたためる   西村 曜
 
ときにその想像は、存在しない、もうひとつの命を思う。睦月都が「十七月の娘たち」で角川短歌賞を受賞した頃から、僕は若い作者が「存在しない子ども」を詠おうとするのが気になっていた。

第一回笹井宏之賞を受賞した柴田葵の歌集『母の愛、僕のラブ』が、つい先日、刊行された(*4)。受賞の言葉で柴田は「実在の私と、実在はしない私を綴り、存在させることは、祈りに近い思いです」と綴っている。

連作「母の愛、僕のラブ」は実在しない「私」の一連である。本作を推した選考委員の永井祐は「作為が徹底している」ことを逆説的に高く評価した。
 
僕らはママの健全なスヌーピーできるだけ死なないから撫でて   柴田 葵

子がいない子乗せ自転車かるがると大人ひとりをかるがる運ぶ

バーミヤンの桃ぱっかんと割れる夜あなたを殴れば店員が来る
 
連作は「僕」という作中主体と「僕」の生きる世界、その全体が作者の想像によって構築されている。その構成意識の強さにもかかわらず、一首一首を見ていくと、むしろ言葉は少しずつねじれていることに注意したい。

「できるだけ死なない」の奇妙な響き。「かるがると」が二回出てくるのはなぜだろう。バーミヤンの歌は「あなたを殴れば」が想像の話なのか、それとも本当に殴ってしまったのか、僕には読みきれない。「バーミヤンの桃ぱっかんと割れる夜」が、かなり突飛で、解釈の分かれそうな想像だからだ。ひょっとしたら、桃太郎と関係があるのだろうか。

ここに挙げた作品では、自分たちが「健全なスヌーピー」だという想像や、子乗せ自転車に「子がいない」という想像、想像それ自体の強さによって、言葉が上書きされ、一首のねじれが生まれているように思う。
 
雨後の筍のように私が生える 狩ってそれから食えるように炊いて   柴田 葵

空想の子どもの成人式に泣く どこ みんな はやく帰っておいで

なん万の原始卵胞だきしめてただただ広い公園へゆく
 
ストーリーをたどれば、いわゆる毒親めいた母のもとを離れ、恋人との同棲を経て、一人で生きることを選んだ作中主体の姿が浮かび上がる。私の周りには「もうひとつの命」どころではなく、次々と「私が生え」、私は泣きながら「空想の子ども」たちに呼びかける。三首目は連作最後の歌で、この文脈で読むならば、原始卵胞とは「存在しない/これから生まれるかもしれない、私/子ども」の比喩なのは明らかだろう。

私が生む私。私を生む私。ここで僕が言い添えておきたいのは、そのテーマを詠む動機は必ずしも作者の性別とは結びつかないということだ。柴田の歌集を読んで僕が最初に思い出したのは、辻聡之が「私」を詠んだ、次のような歌だった。
 
幾人もわたしを腹に詰めこみてときおり淡く声が重なる   辻 聡之

夜光虫のニュースのなかにくりかえし生れては死ぬるひかり わたしの

わたくしも誰かのカラーバリエーションかもしれなくてユニクロを出る
 
辻の歌集は、その名も『あしたの孵化』という(*5)。うまく言えるかどうかわからないけれど、若い人たちは、心に複数の想像世界を抱えるようにして生きており、その生み出した想像のひとつひとつが、自分の存在と、ほとんど等価なのではないだろうか。だとすれば、パラレルな想像の「私」が書かれることの意味を、僕たちは慎重に考える必要がある。

冒頭に紹介した花水木の歌を読み直してみよう。

この一首、特に「長くても短くても愛を告げられなかった」という下句を読むとき、若い読者はまず「長くても愛を告げられなかった」「短くても愛を告げられなかった」少なくとも二パターンの主体の姿を思い、その想像にリアリティの重心を置くために、何割かの読者は「どのようにしても、この愛は告げられなかった」と結論するのではないだろうか。

現代的な想像力のあり方が、短歌を、いま、どのように変えつつあるのか。ここで引用した作品の多くが「愛」の歌であることは、無視するべきではないだろう。短歌の変化とは、言うまでもなく社会の変化と人間の変化、その投影なのだから。
 
 
 
 
*1 『鼓動のうた 愛と命の名歌集』(二〇一四年、毎日新聞社刊)の文庫化

*2 「塔」短歌会会員、宇梶晶子氏のブログ
http://sugarless21.blog.fc2.com/blog-entry-424.html
リンク先の記事によれば、アンケートに答えた人の半分以上が、愛を「告げなかった」と回答している。

*3 西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』(書肆侃侃房)
http://www.kankanbou.com/books/tanka/shinei/0328

*4 柴田葵『母の愛、僕のラブ』(書肆侃侃房)
http://www.kankanbou.com/books/tanka/0387

*5 辻聡之『あしたの孵化』(短歌研究社)
https://tankakenkyu.shop-pro.jp/?pid=147370586