既知の知  笹川諒歌集『水の聖歌隊』

笹川諒さんの歌集『水の聖歌隊』(書肆侃々房2021.2)は、不思議な感情が湧いてくる歌集だ。現実が渾沌として幻影になるように、実体ははっきりとつかめないが、さびしさが増すような読後感がある。 内山晶太さんによる解説にも「笹川作品は文章でその魅力を解剖するのがとても難しい」とあって、その文体に様々な興味を喚起させられる。その魅力、読後感はどこから来るのか、考えてみたい。

笹川さんの歌は動詞で動かしていくタイプではない。美麗な名詞を駆使するタイプでもないようだ。それよりも、それぞれの語句のつなぎ方にある特徴があるように思う。なかでも「条件文」の構成の歌が非常に多い印象をうける。

 

ある時間について

あなたよりあなたに近くいたいとき手に取ってみる石のいくつか

 

昼に月、夜に太陽を思うとき言葉の四隅を刺す銀の棘

 

詩を書けば詩人であると思うとき遠くアルコールランプのにおい

 

友達を家具に喩えてゆくときの家具には家具の哲学がある

 

水飴を買おうかと手を伸ばすとき胸中に立つカストラートよ

 

長い長いエスカレーター昇るときたまに思い出す合唱団がある

 

いずれも「~とき」が使われている歌を前半から順に挙げた。これらの作品での「~とき」は、汎的な時間からある特定の時間を抽出し、その時間の範囲が指示する状態を、後文で述べるかたちをとっている。

たとえば、一首目では、二句目三句目の「近くにいたいとき」のあとに主体の動作「手に取ってみる」が接続している。主体がある行動をする、時間の範囲のなかでの個人的な出来事を描いているということになる。これは「日が昇るとき」などというように、他者が動作の主体ではないのである。主体が動作する時間の描写が、これらの歌を多く占めているということになろう。

六首目は「エスカレーターを昇るとき」の場面。初句に「長い長い」とあるので、上句では相当な時間が経過し続けているはずだが、この歌は、エスカレーターに乗っている時間の長さは強調されることはないし、比重はむしろ下句の「たまに」思い出すという「合唱団」のほうに置かれている。「思い出す」頻度は「たまに」という任意のときであり、思い出す「合唱団」は他の「集団」に置き換えられない。

これは主体の個人的な記憶という設定に由来する。さらには「思い出す」対象が喚起するイメージを使っている。ここでは清々しいイメージが喚起される「合唱団」が「思い出」されるのであるから、主体は音楽に彩られた過去を持っていた手かがりが読者に与えられるということになる。主体像が一首ずつを使って構築される布石である。

 

ある場合について

ソ、レ、ラ、ミと弦を弾いてああいずれ死ぬのであればちゃんと生きたい

 

強弱に分けるとすれば二人とも弱なのだろう ピオーネを剥く

 

それがもし地球であれば雨の降るさなかにあなたはこころを持った

 

お使いで花も頼めば今日きりのこの場限りのあなたは花屋

 

砂糖菓子ひとつにしても夢ならばこころに添った形なのだろう

 

二つ目の特徴に、「~であれば」という場合(「とき」よりも広い条件)の提示の方法がある。二首目のように「強弱にわける」という条件が出され、あとに「二人とも弱」であるという「性質」が示される。これらも主体像を投影していく道筋のひとつである。あえて「分けるとすれば」という場合を提示することによって、後文の内容を強調し、人物像を確定する、読み手に伝わりやすい構造がある。結句でなぜ「ピオーネ」を剥くのだろうか?「夏柑」や「栗」には置換できない意義は、主体像の構築への必然から起因するものではないか。

 

逆接について

三つ目の特徴に「Aだけれど」「Aではないけれど」「Aではなく」という否定・逆接のかたちがある。

静かだと割とよく言われるけれどどうだろう野ざらしのピアノよ

 

いっしんに光り続けた月の語彙、ではなくビスケットをあげました

 

線香と春は親しいのだけれど美味しいパンを買いに行こうよ

 

丁寧に夏を進める 文字を書くわけじゃないけど手紙のように

 

こころではなくて言葉で写しとる世界に燃えたがる向日葵を

 

意味、はもう疲れたけれど調べたらエルミタージュは隠れ家のこと

逆接もまた、その後に続く後文を強調させる働きがある。一首目、「静かだと言われる」は、主体像の投影と実現に使われている。しかし、三句目で「どうだろう」と主体は疑義を唱え、「野ざらしのピアノ」に同意を求める指向をとる。六首目では初句・二句では「意味」について希求するのはうんざり、といった主体の態度をみせ「ながらも」、「意味」のひとつとしての「エルミタージュ」はその主体によって提示される。「隠れ家」は主体像にとってそれを調べなければならない意味として。

 

 既知の知ということ

様々なかたちで主体像を繰り返し照射してゆくことで、内面的なあるいは外面をもたない、生々しい肉体を持たない、想念としての主体像が浮かんでくる。主体はすべてを知り、考え、答えを出している。いわば超越的な存在である。次の歌は、さらにくっきりとした特徴を示している。

 

遠目には宇宙のようで紫陽花は死後の僕たちにもわかる花

 

きみが火に燃える体と知りながらひたすら赤いお守りを持つ

 

指差せば遠ざかるのが夏であると知っていながらゆくモロー展

 

「知っていながら」する行為。これらの歌には、すべての結末をあらかじめ知っている主体の存在がつねにある。一首目では「死後の僕たち」さえ「わかる」ことを知っていて、二首目、「お守り」を持つことは、火に燃える体と知っているならば対象には無意味であるはずなのに持っているという。三首目、「モロー展」になぜゆくのだろうか。そして「モロー展」である必然とは。

主体は超越的な存在だと前段で述べた。言い換えれば「知っていることを知っている」、つまりは「既知の知」像の表れであるようにも思う。「既知の知」の主体の存在が語り手としてあることで、逆に主体以外に描かれる他者はおおむね「無知の無知」的であり、それらの存在を主体は悲しげに見つめるばかりなのだ。

ある条件下における主体の行動を少しずつ提示して構築していく超越的存在としての主体像がある。その主体を動かすことは、作者が表現で目指すところ、作中へ意図されたイメージを、読み手が確実に受け取る確率を高くするということでもある。読み手それぞれが受け取ったイメージの幅のぶれを最小限に抑えることは、作者による表現の操作性の割合が非常に高いことを意味する。「知っていることを知っている」主体が見るものを、読み手は安堵して受け取れる。提示されるあらゆるイメージはもちろん読み手の期待を裏切らない。そうして手渡されたものを安堵して見つめる読み手の眼は、どこまでを視るだろうか。