市場在庫とアクセシビリティ

作品や著作が人目に触れ、入手可能な状態にあるということは、良いことだ。

勿論それがおのれにとって必読の書であると直感すれば、古書店をはしごしたり、同人誌であればイベント頒布や通販の情報をSNSで追ったりするだろう。手に入らないならせめて閲覧を、あわよくば複写をと、所蔵する図書館や文学館を探すのも厭わない。とは言えそこには当然限界もある。

筆者の身近な話題で恐縮だが、「塔」には現在「実は読んでいなかった…」という名の投稿欄がある。元は特集企画だったもので(2021年1月号)、編集部作成の「近代以降の必読歌集50選」の中から一冊を自由に選んで読み、誌面半ページ分の感想文を寄せるというものだが、この必読リストも『現代短歌全集』全17巻(筑摩書房、増補版は2001年6月~2002年10月)という、所蔵する図書館の比較的多い本に収められたものを中心に選ばれている。マスターピースの紹介であると同時に、新規の読者に対しては作品へのアクセス方法の提示も兼ねていて、まあまあ良心的なリストである。

だが結局のところ、図書館の蔵書の有無よりも店舗や市場に在庫があるかどうかの方が、作品へのアクセシビリティの指標としては有用であるように思う。これは小説の例だが、昨年7月に発表された第165回芥川賞は、選考会までに候補作全てが単行本として書店に並んでいたという意味で異例の回だった。芥川賞は雑誌掲載作を候補とするため、候補作が決定した時点で掲載号は全てバックナンバーになっており、書店からは消えていることが多い(くどうれいん「氷柱の声」の初出である「群像」2021年4月号に至ってはそもそも完売していた)。候補作であっても単行本にならないケースすら存在する。無論、図書館も多くは文芸誌を収蔵しているが、芥川賞のような一種の「祭」が起きるとバックナンバーの貸出希望は殺到する。候補作が受賞の有無に関わらず単行本で手に入る状態はそれゆえ読者にとって嬉しい事態であるが、版元側としても、本離れが叫ばれて久しい昨今において少しでも販売実績を生み出すには、賞の権威化云々を差しおいてでもこの年2回の「祭」を利用しない手立てはないだろう。

なんだ資本主義か、と人は言うかもしれない。無論こちらも唯々諾々と現状に従うばかりではないのだが、それでも例えばWeb検索時に版元の商品紹介ページよりも先にAmazon等の通販サイトへのリンクが表示されるような、利便性重視による市場の一元化という世間の流れに抗うのは容易なことではない。ついでに言うと、手に入らないなら図書館にでも行けば、というごもっともな助言は今後徐々に使いにくくなると思う。図書館のアーカイブに対して行き過ぎた市場原理が噛みついてくる例は今後増えるだろうし、そもそも市場の一元化とは見方を変えれば在庫の集積がアーカイブのごとく振舞う現象であるから、アーカイブの存在基盤自体いつまで安泰かは分からない――、と言ったら筆者の悲観が過ぎるだろうか。

そもそも短歌というジャンルはある程度の入手コストの高さ(そもそもの市場規模、それに由来する値段、入手経路、それらをサーチする労力etc.)をどうしても抱え込んでしまっている。未知の読者からすれば、必読の書に到達することはおろか、総合誌の書評で取り上げられていた新刊にたどり着くことさえ、時に大きなハードルとして感じられるのではないだろうか。

 

 

そうした書籍流通とアクセシビリティに関するあれこれを踏まえた時、『葛原妙子歌集』(川野里子編、書肆侃侃房、2021年11月)が刊行されるまでの流れは完璧だった。8月刊行の「ねむらない樹」vol.7で葛原特集を組み、同月には川野里子の労作『幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店、2009年6月→書肆侃侃房、2021年8月)の新装版を刊行。それまで葛原作品に触れてこなかった読者の意識の中にも葛原の名をある程度すべり込ませた上での選集刊行である。

『朱靈』完本他1500首という収録内容を聞いた当初は、選集を出すくらいなら全歌集を復刊してくれたら良いのに、等と呑気なことを言っていた筆者だったが、実物を手にして考えを改めた。1ページ8首組、1500首が詰め込まれた本は上製本でありながら、軽くて手に馴染む。本体価格2000円という定価も異例だろう。この選集は、長年の読者ないし読者になりたかった者の待望を満たすだけでなく、葛原作品は初めてという人にとっての入口としての役目も十二分に背負っているのである。入口であるならたしかに、全歌集では物理的にも内容的にも重すぎるし、それこそ重さと値段は手に取るハードルの筆頭である。新規読者へのハードルを下げつつも、葛原の作品世界を堪能できるだけの作品数を、という葛藤の末に編まれた1500首なのだろう。

では、全歌集はハードルを越えた者のみがたどり着く出口なのかというと、そんなことはない。全歌集はむしろ一次資料としては出発点であるし、読者によってはここが入口となることだってあり得る。

2021年は大げさに言えば全歌集の当たり年だった。無論、大量の作品群を一冊にまとめる編纂の労を思えば「当たり年」なんて言い草は結果論でしかないのだが、それでも『森岡貞香全歌集』(砂子屋書房、2021年1月)、『馬場あき子全歌集』(角川書店、2021年9月)、そして『岡野弘彦全歌集』(青磁社、2021年12月)の三冊がたった一年のうちに出たことは強く印象に残った。

『馬場あき子全歌集』も、手に取った際はまず本の軽さに驚いた。厚さ75.0mmの函に収められた2巻本と聞いて、手首を痛めるのを半ば覚悟していたが、目の前に現れた函の中身はなんと並製本、ソフトカバーである。だがそれゆえに、『早笛』から『あさげゆふげ』までの27歌集分(!)を収めているにもかかわらず片手でも持ちやすく、ページも開きやすい。1ページあたり8首×3段組という詰め込みぶりだが、馬場自身「あとがき」で「個人の全歌集はとにかく一冊にまとめたあった方が便利というのが私の考えである」と記している通り、まさに定本として参照されることを目的とした一冊だと言えよう。

これは昔話だが、筆者の通った大学の図書館にも『馬場あき子全集』(三一書房、1995年9月~1998年5月)の所蔵があり、評論を書く際には重宝したが、全集完結以降の単行歌集は当然ながら大学図書館にあるはずもなく、市内の図書館や府立図書館の蔵書を検索したり、当時すでに営業時間を短縮しつつあった三月書房を覗いて最後の一冊を探したりした。全集以降、すでに『続・馬場あき子歌集』(短歌研究文庫、2004年3月)への抄録以外では入手困難なものもいくつか出始めていたし、それこそ馬場のような常に第一線で活躍し続けている作家であれば、各著作へのアクセシビリティは読み手側がいつ短歌や馬場あき子という作者と出会ったかによって必然的に異なってくる。全歌集の刊行は、単に入手可能な在庫が存在するというだけでなく、一度は断たれそうになっていた読者のアクセシビリティをまとめて回復させる役割も担っているのである。

 

 

念のために書くが、作品や作者へのアクセシビリティは何も市場在庫の有無のみで決定されるものではない。絶版となろうが古書価格が高騰しようが作者が亡くなろうが、読み継がれ、語り継がれる名作というものは存在する。ただ、最後に残るのは作品だからと安易に開き直るのは、読者が作品に至る経路や機会、すなわちアクセシビリティに関して度外視した理想論だ。

昨年12月、「SFマガジン」(早川書房)で検討中だった「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という短篇競作の企画案がTwitter上で多数の批判を浴び撤回されるという出来事があった[*1]。SFの絶版本となれば、早川書房自身の本が相当数含まれることは容易に想定できる。そうした状況下にあって、当の絶版本の版元がそれぞれの作品およびその書き手の意志を尊重せず、新しい読者に作品を届けるという職務をも放棄した姿は、内輪ノリのお遊びであると非難されても致し方ないものだったように思う。

無論、SF小説と短歌では業界の事情が違う。多くの歌集歌書は自費出版であり、そこそこの謹呈とそれなりの販売によって捌けるくらいしか印刷されないだろう。謹呈先とは言い換えるなら、作者の想定の範囲内の読者ということだ。短歌というジャンルが抱え込んだ入手コストの高さの一因は恐らくここにある。歌集歌書の多くは、謹呈先という刊行時点において想定された読者の範囲内で流通が完結しがちであるという業界の構造ゆえに、時間経過によるアクセシビリティの低下が他ジャンル以上に避けがたいものになっているのではないだろうか。

例えば筆者は、短歌新聞社や雁書館が現役の出版社であった時代を知らない。これらの版元の刊行物は国会図書館への納本も不完全で、たまたま所蔵している各地の図書館等を探し出さなければならなくなる。なにせ、国会図書館にある道浦母都子『無援の抒情』の最も古いものは雁書館版(1980年12月)ではなく岩波書店刊行の同時代ライブラリー版(1990年3月)であるし、雁書館から刊行された永田和宏の歌集に至っては一冊たりとも収められていない。勿論『無援の抒情』は現在までにながらみ書房から出た新装版(2015年10月)をはじめ何度も出版されてきたし、永田の場合も、少し前は本当に手に入らなくて困っていたが、今は『永田和宏作品集Ⅰ』(青磁社、2017年5月)があるからそこまで問題ではない。だがこれだって、あくまで「現在」や「今」の話であって、アクセシビリティを未来永劫約束してくれるわけではない。私自身が過去の歌人たちへ時折「あれもそれも持っていて、ずるい!」と勝手な怒りを感じてしまうように、将来の歌人たちも現在の私たちに対して「お前だって十分ずるい!」と睨みつけてくるだろう。

 

 

ここ数年来、歌集歌書の復刊が増えている背景には、現状脈々と続いてしまっている閉鎖的な流通やアクセシビリティに対する構造的再検討が目論まれているからではないかと筆者は見ている。2021年に限っても、書肆侃侃房が2020年に開始した復刊シリーズ「現代短歌クラシックス」からは千葉聡『微熱体』(短歌研究社、2000年6月→書肆侃侃房、2021年5月)、今橋愛『O脚の膝』(北溟社、2003年12月→書肆侃侃房、2021年6月)、渡辺松男『寒気氾濫』(本阿弥書店、1997年12月→書肆侃侃房、2021年9月)、染野太朗『あの日の海』(本阿弥書店、2011年2月→書肆侃侃房、2021年12月)と四冊が復刊された。他にも松村正直『駅へ』(ながらみ書房、2001年11月→野兎舎、2021年1月)、三原由起子『ふるさとは赤』(本阿弥書店、2013年6月→本阿弥書店、2021年6月)、黒瀬珂瀾『黒耀宮』(ながらみ書房、2002年12月→泥書房(=現代短歌社)、2021年10月)等の復刊は記憶に新しいし、喜んだ人も多かったのではないか。筆者としてはこの中に、『雨裂』(雁書館、2001年10月)『エウラキロン』(雁書館、2004年7月)という今は無き雁書館から出た初期2歌集を完本で収めた現代短歌文庫『真中朋久歌集』(砂子屋書房、2021年10月)も加えたい。

こうして概観すればするほど、すでに故人である森岡貞香と葛原妙子の作品が揃って書店で新刊として並んでいる、もしくは注文可能である現在の状況が貴重に思えてならない。森岡の没後、2冊の現代短歌文庫(『森岡貞香歌集』砂子屋書房、2016年3月・『続・森岡貞香歌集』砂子屋書房、2016年11月)に歌集6冊分が完本収録されてはいたが、それでも十三回忌の日に出た『森岡貞香全歌集』は3冊の遺歌集までを含んだ完全版として重要な一冊であり、これ以降定本とされるだろう。葛原に至っては没後36年、砂子屋書房版の全歌集から数えても19年が経過して、現代歌人文庫の『葛原妙子歌集』(国文社、1986年4月)も長く品切れだった状態を経ての復活である。

勿論、こうした復刊の流れがある種の権威化に繋がり得るという見方は可能だろう。筆者も「現代短歌クラシックス」の企画が発表された当初は、クラシックス=古典を自称することを含めてやや懐疑的に見ていた。だが、よくよく考えてみるまでもなく、ポスト・ニューウェーブ世代の歌集ですら多くはとっくの昔に入手困難になっていた。はっきり言って、業界の流通構造そのものにメスを入れない限り、今後出版される新しい世代の本だってあっという間に在庫切れになるだろうし、アクセシビリティだって永久に確保されない。書肆侃侃房の一連の復刊プロジェクトは、新規読者の獲得によって従来の想定された読者範囲の突破を試みている。それは回り回って、閉じた世界の読みや歴史を新しい目によって再検討する機会へと繋がってゆくだろう。

作品や著作が人目に触れ、入手可能な状態にあるということは、良いことだ。たしかに最後に残るのは作品だが、それは有限の命を生きる私たちが新しい世代に向けて脈々と作品を伝え続ける努力を怠らなかった時に限った話であることを、忘れないようにしたい。

 

 

[*1]ハヤカワ・オンライン「SFマガジン「幻の絶版本」特集の中止について(2021/12/07)」および「お詫びと展望(SFマガジン2022年2月号より)(2021/12/27)」を参照。