表現と矜持 竹中優子歌集『輪をつくる』

竹中優子さんの歌集『輪をつくる』(角川書店2021.10)は、主体の葛藤が克明に描かれている歌集だ。主体自身や周囲の人々を見つめて、人が社会生活を平穏に送るうえで、不可視だが知覚される狡さや痛み、怒りといった質的な深さをもって見つめた作品群である。振り返れば、これまで見てきた歌人たちの作品は、より名詞に荷重をかけた作品が多かったようにも思う。しかし、竹中さんの作品は、動詞が名詞と等価か、名詞よりも動詞の置き方に力を入れている印象がある。

この作品もまた、あるところでは「痛み」だとか「喪失」だとか、いつもの言葉で語られてゆくのかもしれない。ただ、それはどこからそう思われ、発生していった把握だったのか?読み手は根拠を思うことこそ常にするべきではないか。

 

動態ということ

癖のように朝だ ガラスの向こう側のわたしがストーブに火をつける

 

触れずに終わる話題があってあの店はカレー屋だったねといつか言い合う

 

傘を差さなくていいほどの雨が降るという気象予報士の目を見てしまう

 

運動靴はバケツに浮かぶ秋の日の水の重さに押し上げられて

 

「ストーブに火をつける」「触れずに終わる」「いつか言い合う」「見てしまう」「押し上げられて」は、いずれもその前で挙げた名詞の状態を言い表したものだ。

たとえば、一首目は朝にストーブに点火する「だけ」の歌。朝は寒い、ではなく、「癖のように」と比喩で表す。ルーティンとしての朝のやり方を、視点の位置を変え、描き方を動作の描写に絞っているところに注目する。すると、「わたし」のする動作がある意味合いを帯びてくる。

二首目は未来的・予言的に時間を策定している。「いつか」だけで、後に続く動詞の時制を変えてゆく方法だ。「あの店はカレー屋だったね」という口語は終了したものを指しての会話なのだが、ここでは歌の中心にしていない。最後の動詞の「いつか見てしまう」を引き起こすための下位の道具立てとして存在している。

三首目は「見てしまう」が後悔を含む。何気ない場面にどんな感情をからめるか、名詞ではなく、動詞で描いている。四首目は、提示→状態の組成が見て取れる。「運動靴」を提示し、その状態を詩的に描いていく。読み手はその経路をたどることかできる。イメージが保ちやすい。

 

 

虚構と現実

次のような歌がある。

ふたりの子のひとりの死までを見届けて祖母の口座の残金二万円

 

主体の祖母の痛切な人生が語られ、明かされていくなかで、この歌が出てくる。

「二万円」が、貯蓄額としてはとても少なく、貯蓄をほぼ使い果たしたことに読み手は「気づく」。

このように、本歌集では「社会通念」というのがありながら、それにそぐわない動きをする人々が多く出てくるのだが、いずれもリアリティをもって読み手は受け止めるだろう。いつのまにか、読み手は、この作品が実人生に近接した作品であることを把握して、主体=作者の実人生として読む方法で読んでいるからだ。すさまじい実人生を送っていること=歌の迫力ということではないのに、自分が何で感動しているのか、境界線が不明になってくるのを知るだろう。

すべては作者が、どのように描きたいことを描くかというところだ。本歌集『輪をつくる』では、実人生に近接していてもなお、その劇的な生に依存していない、表現の部分でも明確なものがある作品群だと感じることが多かった。

 

倍速短歌

ところで、動態を描き出すということが重視されない・派手な名詞で飾られた作品が格段に増えているように思う。ある一人の、誰かの文体がもてはやされ、ほかの誰かが真似て吸収し、その後、無数の「擬き」が生まれてゆく。「擬き」は指摘されないまま、さらにもてはやされ、拡散されていく。それもまた当世風の流行であり、拡散・展開のしかたなのだろう。しかし、流行は廃れるのもはやい。すると新しい誰か(何か)が担ぎ上げられる。そしてまた・・その繰り返しは今に始まったことではなくて、筆者などは幾度そうした景色を見ただろうと思ってしまう。

短歌の作り手たちは、自らの歌が(ただの)消費材として急速に消費されていくことも望んでいるのだろうか?巷では動画の1.25倍速視聴が、内容をざっくり把握するものとして定着している。「ファスト映画」などもその派生であるし、著作権と動画の収益の関係もあって問題化した。

多くの著作物は、じっくりと向き合われることもなく、速い速度で消費されてゆく。短歌はそうした「倍速視聴」とよく合う性質をもっている。なぜならば一行で終わるからだ。小説のように長い時間拘束されて読むこともない。さらに表現に関しても目を引いて読みやすく、倍速にしなくてもすぐ終わるもの、あるいは、作品には倍速視聴でも目立つようなものがなにかあればよいものが好まれている。倍速短歌は倍速で消費され、果てる。だが、人と人とが分け隔てられている今、ただ消費する・されるだけの歌の状況を、まず短歌の作者・作り手側から考え直す時ではないか?

反時代的な作り手は、つねに主たる動きに反してゆく。筆者は決して易々と消費されないものこそが残ると信じたい。反時代的な表現者の矜持を、この一年間、筆者は灯台守として各々の作品に見てこられたように思うし、灯台の光を当てるようにこのコラムで取り上げさせていただいた。そうした作品との出会いをささやかな僥倖としたい。

一年間ありがとうございました。