出会いの熱量

「歌壇」のリレー評論連載「平成に逝きし歌びとたち」が2022年3月号の第27回をもって終了する。2月号巻末の「次号予告」で知り、まだまだ取り上げてほしい歌人は多くいたのに、と寂しい気持ちになった。作家が亡くなった途端に全てを忘れ去り、新規性ばかりを追い求めがちな世の風潮に抗う好企画だったと思う。

そもそも、こういった読み切りの作家論企画というのは結構有り難くて、名前は知っていても作品を読んだことがない歌人への入口になったり、ふと読み返してみようというきっかけになったりする(同じような理由で、文庫本の解説や全集の月報の文章が好きだ)。個人的なことを言えば、ここ数年は雑誌連載を追いかける体力がめっきり落ちてしまい、読もう読もうと思っているうちに次の号が出ては難攻不落の未読タワーが建造されたりしているのだが、単発の記事であれば、帰宅途中の電車内や就寝までのわずかな時間でも読み通すことができて嬉しい。

そんなことを思いながら、2022年1月号掲載の岩内敏行による雨宮雅子論を読んでいたところ、次のような文章に出会った。

 

 今回の原稿を書く過程で惜しいとおもったことがいくつかあったが、決定的なそのひとつは、昭和五十一年の第一歌集『鶴の夜明けぬ』以前の雨宮雅子に会える機会が現代においてほとんどと言っていいほどないことである。(…)
(…)それゆえ、雨宮雅子が論じられるのは、第一歌集以降のことが圧倒的である。歌を中断した時間があったとは言え、じつはまだまだあたらしい視点で雨宮雅子は論じられるべき歌人だと私はおもっているし、『鶴の夜明けぬ』へと接続させてゆく雨宮雅子論が求められている。そして令和の世にも生き続けてほしい。だから、いずれ未刊歌集の『天の樹』も実現し、雨宮雅子を現代の歌人たちが読み、親しんでほしいと切実にねがっている。今回、「平成に逝きし歌びとたち」を書くにあたり、これを書くことで本当に雨宮さんが逝ってしまわないようにするにはどうすればいいかをかんがえた。初期の歌を中心に書いたのはそのためだ。私の中に区切りがつかないようにするために。
(岩内敏行「夢一つ育ててゆけば ~歌人雨宮雅子の出発」「歌壇」2022.01)

 

告白や祈りのようにも響くこの文章を貫いているのは、一人の作家を読み継いでいこうとする強い意志である。その意志ゆえに岩内は、雨宮の初期作品へ容易にアクセスできずに作家研究――と書くと何だかお堅そうに感じるかもしれないが、要するに「読み」の可能性の模索と積み重ねである――が進展しない現状を憂いている。筆者にとっても、雨宮の「女人短歌」への参加は年譜的事項として頭の片隅にはあったが、実際に当時の作品は今回の岩内の評論中の引用で初めて目にした。

そもそも筆者は、残念ながら雨宮雅子のいい読者とは言えない。総合誌を手に取るようになった頃、生前最後の歌集となった『水の花』(角川書店・2012.05)の広告が誌面に大きく出ていた記憶はあるが、歌集は手に取らずじまいだった。ようやく最近になって、古書店の店先で第8歌集『昼顔の譜』(柊書房・2002.07)と出会って以降はその歌の味わいに惹かれ、見つけたら買うようにしている歌人の筆頭に置いている。

と、ここまで書いて思い出したことがある。雨宮雅子には全歌集が無いのである。一応、第5歌集『熱月』(雁書館・1993.11)までを収録した『雨宮雅子作品集』(本阿弥書店・1996.05)は存在するがとっくに品切れであるし、『作品集』以後20年分の作品は個々の歌集か、初出の雑誌を当たらなければならない。ならば初期作品や未刊歌集へのアクセスは、それこそ「調査・研究」を目的として図書館にでもこもらない限り不可能だろう。

作品が生き続けているというのは、書庫の奥深くで眠り続けているのを起こしに行く状態のことではないはずだ。そう思いながら再び岩内の文章に戻ると、「本当に雨宮さんが逝ってしまわないようにするにはどうすればいいか」の部分の重みに気づく。そしてこれは、今回のリレー連載で取り上げられなかった何人もの「平成に逝きし歌びとたち」にも当てはまることだろう。

 

 

ところで、「全集」という類の書物がどうして作者の存命中に刊行され得るのか、かつての筆者にはまるで理解できなかった。これで筆を折るわけでもないのに、すぐに「全」でなくなってしまうような大部の刊行物を何故わざわざ作るのだろうと首をかしげたものである。その頃「全集」と聞いてまず思い浮かべていたものが「J.S.バッハ全集」や「ラヴェル・管弦楽曲全集」といった、作者が故人である場合の多いクラシックのジャンルだったせいもあるだろう。無論、作者の死によって「全集」の中身が確定するわけでは決してないことは追々理解することになる(バッハであればBWV番号を持ちながらのちに偽作と判明した例は数多いし、逆にラヴェルは生誕100年(1975年)以降に再発見・出版された初期作品によって「全集」の印象は様変わりした)。

あるいはこれは、みずからも書き手の側に立ってみて初めて理解したことかもしれない。単行本、文庫本、選集など、書籍形態の選択肢はいくつか存在するが、どうしても時とともに作品が読者に届かなくなる。これは在庫の有無の話だけではない。日々新刊が書店に並び新作が雑誌を賑わせる中で、仮に何某の賞を受けた代表作であっても時の流れは徐々に作品を書架の隅へ隅へと追いやってゆく。全集の刊行とは言い換えれば復刊プロジェクトの一形態であり、読者に愛蔵されることで作品を再び生き返らせる手段なのだ。生み出し続けることをやめない作家にとっては、全集は決して過去の栄光に縋るものではなく、現在と未来に属する作品群であるだろう。

『齋藤史論』(雁書館・1987.06)の中で雨宮雅子も、旧版『齋藤史全歌集』(大和書房・1977.12)について「いまもたくましく歌いつづけている齋藤史にとって、「全歌集」とは矛盾というべきだが」と言いつつ、その全歌集や自選歌集『遠景』(短歌新聞社・1977.05)を通じての齋藤史体験を次のように記している。

 

私にとって、齋藤史の歌との出会いはおそいものだった。最初、手元にあるものといえば、あの病室で〝再会〟した『遠景』だけだった。それ以前に雑誌の誌上でしばしば作品に出会ってはいるが、歌集としては、そのあと『ひたくれなゐ』、『齋藤史全歌集』、自選歌集『風のやから』となる。あの幻の第一歌集『魚歌』をはじめて手にしたのは、人からの借り物だったし、時代を画するそれぞれの歌集も、ああこれがあの歌集かという〝伝説〟の追体験にしかならなかった。
書物には、それが世に出たときからそこに宿されている〝アウラ〟というものがある。書物の「現在」が、それを著者と共有した読者の記憶の変容と重なりあって、〝アウラ〟は徐々に徐々に歳月の奥に消えてゆくが、いっぽう、書物は読者のなかで独自の世界をつくりはじめる。初版本をそろえるとか、幻の歌集を現実のものとして所蔵するといったことにはまったく遠いが、私の場合、ぼろぼろになるまで読み継いできた『齋藤史全歌集』がある。そのなかをゆきつもどりつしながら、そこに私の世界を勝手につくりあげてきたということになるのである。
(雨宮雅子『齋藤史論』「齋藤史への旅――はじめに」雁書館・1987.06)

 

作品と読者でも、作者と読者でもない、書物と読者の実り豊かな関係性を端的に語った文章であるように思う。そして何より、雨宮の『齋藤史論』は、『齋藤史全歌集』という一冊が「読者のなかで独自の世界をつくり」あげた好例である。熱い“推し語り”のようなもの、と言ったらやや乱暴すぎるかもしれないが、好きな作品を大切に大切に扱おうという意志に貫かれた快著である(刊行の翌年には第16回平林たい子文学賞を受賞した)。

だがここで、「雨宮雅子の熱は今も彼女の残した著作の中に息づいている――」とこの文章を締めることができないのが悲しい。岩内が危惧するように、作品はやはり読まれ親しまれてこそ研究の対象となり得る。年表に出てくるから、作者に多くの賞歴があるから、多くの弟子を育てた選者だから、歌人なのにWikipediaに項目があるから……等で価値が決まるわけではない。

雨宮の『齋藤史論』のページをめくりながら、筆者はみずからがこれまでに書いてきた評論において、かつて生きて書いた作家たちの熱量――雨宮流に言えば〝アウラ〟――を無視した上でそれを等速的な年表上に無機質に並べられた事象のひとつに貶めたことが一度も無かったと果たして言い切れるだろうかと、喉の奥を詰まらせながら自問せざるを得なかった。そして自問しつつ、現在の状況に対してやや冷ややかな目を向けざるを得ないとも感じた。テクストとの出会いの感触の個別性を、歴史や流派、時代潮流や世代感覚の名の下に見なかったことにしていないか。作歌と評論はよく車の両輪に例えられるが、そもそも評論の両輪として、作品に対するミクロな「読み」と歴史・社会・時流に対するマクロな「読み」の二項が存在しているとは言えないか。どうせ色眼鏡と揶揄されるなら、自分で拵えた眼鏡をかけた上で作品を向き合いたい。時代や歴史と刺し違えるのは論じる上で必要な過程ではあるが、それ自体が目的ではないはずだ。もっとも、目的として照準を合わせておかなければならないほど、闘う相手が手ごわいとも言えるわけだが……。

 

 

不意に湧いた俗世への苛立ちを沈めつつ、「平成に逝きし歌びとたち」全27回で取り上げられた歌人の、全歌集や作品集の有無を列挙してみることにする(カッコ内は刊行年)。

 

・没後刊行…上田三四二(1994)、前川佐美雄(1996/2002-2008)、土屋文明(1993)、大西民子(2013)、二宮冬鳥(2009)、髙瀬一誌(2005/2015)、富小路禎子(2003)、春日井建(2010)、塚本邦雄(2017-刊行中)、山中智恵子(2007)、前登志夫(2013)、森岡貞香(2021)、竹山広(2014)、玉城徹(2017)、築地正子(2007)、永井陽子(2005)、安立スハル(2007)

 

・生前刊行…大西民子(1981)、齋藤史(1977/1997)、塚本邦雄(『定本塚本邦雄湊合歌集』1982、『塚本邦雄全集』1998-2001)、近藤芳美(『近藤芳美集』2000-2001)、森岡貞香(『定本森岡貞香歌集』2000)、竹山広(2001)、加藤克巳(1985)、河野裕子(『河野裕子作品集』1995)、安永蕗子(2000)、岡部桂一郎(2007)、雨宮雅子(『雨宮雅子作品集』1996)、岩田正(2011)

 

・未刊行…柏崎驍二、橋本喜典

 

冒頭で、まだまだ取り上げて欲しかった歌人がいたと書いたが、挙げ始めると切りが無い。もっとも、全歌集が出ている歌人、例えば小中英之、石田比呂志、稲葉京子などは人気もあるだろうし、これからも論が書かれるだろうという気はする。この27名も、おそらく人選の時点で師系に偏りが出ないよう、それなりの配慮が施されているように見える。

ただ、これは筆者の個人的な感覚ではあるが、藤井常世と成瀬有の、せめてどちらか一人は、かつて「人」に所属した釈迢空-岡野弘彦の系譜から挙げて欲しかったと感じてしまう。成瀬は2012年に、藤井は2013年に亡くなったが、残念ながら両者とも全歌集は出ていない(もっとも、成瀬が主宰した「白鳥」の終刊号では、追悼号として初期歌篇を含む歌集未収録作が掲載されたようだ[*1])。

あるいは、小高賢。吉川宏志「小高賢論 公共性への夢」(「歌壇」2014.05→『読みと他者 短歌時評集2009年-2014年』いりの舎・2015.11)は小高の論作を行き来しながら彼の視座を問い直そうとする追悼文であったが、小高という唯一無二の論客をいま再び問い直そうという「読み」は果たして存在しているだろうか(「かりん」なら大丈夫だろうとは思うけれど)。

そして、生方たつゑ、長沢美津。「ねむらない樹」vol.7(2021年8月)の葛原妙子特集内で「女人短歌」が取り上げられ、阿部静枝、五島美代子、森岡貞香とともに一人2ページずつの作家論が掲載されたが、筆者は特に、アララギ的写生写実をルーツに持つ二人に興味を持った。年末には長沢の第7歌集『汐』(新星書房・1958.09)を手に取り、その癖になる字足らずの歌に魅了された。今年に入ってからは、まさかの短辺綴じで1ページ1段21首組というちょっと変わった判型の『生方たつゑ全歌集』(角川書店・1979.12)を折に触れてめくっている。

無論筆者も、読まなければ、論を書かなければ作品が死んでしまう、と自分を追い立てているわけではないし、「生かすもの」「蘇生するもの」を選ぼうなどと気負っているわけでもない(そんな発想では支配者による歴史記述を繰り返すだけだ)。本が好きな人であれば、ずっと積んでいた本をある日ふと手に取ったが最後一気に読み通してしまったり、自分の無意識のうちの不安や欲求と合致するような本と書棚の前で目が合ったりした経験はあると思う。作品や書物や作者と出会った際に感じるあの熱量を忘れずに、テクストとの生きた関係性を築き続けることこそが、巡り巡って論作の源泉となり、作品を生かし続けることに繋がるのではないだろうか。――そんなことを、感染急拡大の日々の狭間で考えている。

 

 

[*1]一ノ関忠人「日々のクオリア」2014年11月18日付 参照