わたしたちにゆるされた孤独

「ねむらない樹」vol.8(2022年2月)の「渡辺松男メールインタビュー」を読んでいて、思わず泣きそうになった箇所がある。

 

(…)短歌関係のうれしい思い出は、じぶんには大して才能はないとおもっていましたし、いまでもおもっていますが、歌林の会の故岩田正先生が「君の才能は僕が保証する」「僕が太鼓判を捺す」とか言ってくれるわけです。無制限に応援してくれるわけです。えっ? ておもいましたけど、うれしいじゃないですか、そう言ってくれる人がいるって。岩田先生に会うたびに、こんなじぶんでも励まなくてはとおもいました。(…)
わたしはひとにアドバイスできるようなひとではないんです。わたしが歌を始めたころの年齢のひとが、今のわたしよりずっと上手な歌をつくっていますから。ただわたしが岩田正先生に巡り合えたように、若いあなたの歌を全面的に肯定してくれるひとが、一人でも二人でも現れればいいなと思っています。歌いたいことを自由に歌いつづけてください。待ってくれと言って、技術はあとから追いかけてきます。
(「渡辺松男メールインタビュー」「ねむらない樹」vol.8、2022年2月)

 

渡辺松男と岩田正の美しい師弟関係に涙したのではない。自分自身にもいたかもしれない、あるいは現在もどこかにいるかもしれない「全面的に肯定してくれるひと」の存在を、ともすればいつも視界の外へと追いやりながら生きてきてしまったのではないか、と胸を突かれた気がしたのである。

少しだけ、筆者自身のことを書くことをお許し願いたい。

10年前、筆者は心療内科で抑うつ状態と診断された。きっかけこそ仕事上のストレスだったが、のちに最初の仕事を辞めるほどに症状を悪化させる要因は明らかに、育ての親である叔母の死であった(筆者には実の両親の記憶が数えられるほどしかない)。悲しくて心を痛めたのではない。詳しい経緯までは書けないが、いつか「外の世界」で認められて見返してやる、と思い続けていた相手が急にいなくなったことで極度の虚脱状態になったのである。

家族や血縁はそれこそ「無制限に応援してくれる」「全面的に肯定してくれる」人の例に挙げられやすいが、それを経験として語れる人の幸せを認め、ゆるせるようになったのはごく最近のことだ。おそらく、筆者はあの家を無意識のうちに諦めてしまっていたのだと思う。育ててもらった、大事にしてもらった、何より同じ屋根の下で一緒に暮らした、そういう細々としたやさしい思い出の一切が浮かんでこないほど、あるきっかけで閾値を超えてしまった悔しさと寂しさが心の表面で墨塗りとなっていた。そんな精神状態だから、自力で学費を稼いででも大卒の学歴を得たし、葬式のために帰った実家でも同人誌の原稿を書いた。

――話を戻そう。

岩田正による「君の才能は僕が保証する」「僕が太鼓判を捺す」との言葉を、渡辺松男は「無制限に応援してくれる」「全面的に肯定してくれる」ものと捉えることができた。それらの認識に原初的に含まれるであろう幸福を、筆者はまず思わずにはいられない。私は私としてここに存在していて良いのだ、というあたたかな認識から自らの歩みを進めることができる人は強い。そうした認識や、他者からの無条件の肯定に慣れていない筆者のような人間は、他者からの評価というものを、こいつは一体何を企んでいるのか、もしかして今は私を褒めたら得する場面なのだろうか、等という視点でばかり見てしまいがちだ(――って、自分で書いていて嫌になるなこれは。最近はここまで極端ではないけれど)。言うまでもなく、これは自分自身にとってはとんでもなく不幸だし、他者に対してはとんでもなく失礼だ(そしてこの失礼さについては自力で気づかなければ意味が無いのだと、かつて胸倉を摑まれ睨みつけられた記憶とともに書き記しておく)。

自己肯定感、という言葉が広く喧伝されるようになって久しい。おのれの劣等感に従い何とかして欠落を埋め合わせようと執心するのではなく、つい欠落だと思ってしまいそうになるそれら全てをひっくるめて、今現在の自分を無条件に丸ごと受け入れることが大事だと、頭では分かっているのがこれがどうにも難しい。そもそも自分自身の姿を受け入れるだけの心の素地が無ければ、どれだけ「外」からの評価を得たところで心を素通りしてしまうだろう。自己否定が過剰になればなるほど、他者の言葉を穿った見方でばかり捉えてしまい、結果的に「外」の拒絶につながるのである。しかも、劣等感や欠落といったマイナスを埋め合わせようとするエネルギーは、発動し続けるために新たな負の感情の鉱脈を発見してしまい、ちょっとやそっとでは歯止めが利かなくなってしまう。筆者自身、ちょっと批判されただけでも、全世界が敵に回ったような騒ぎをしてしまった過去が何度かある。

こうした自己肯定感にまつわる苦しみを、SNS全盛の現代ゆえの現象と見る人もいるだろうが、そんなことはないと思う。程度の差こそあれ、「外」からの評価や承認をめぐっての精神的な苦闘というものは昔からあったはずだ。それも、作品に対して、あるいは作家としての承認を何らかの形で求めてしまいがちな、創作の場であれば。

 

 

承認の話になって、「NHK短歌」2021年11月号の、黒瀬珂瀾による「短歌のペイン・クリニック」のことを思い出した。この欄を最初に読んだ際には、次の箇所で思わず変な笑いが漏れてしまったのだった。

 

(…)そもそも歌人の「活躍」って何でしょう? 有名になること? 総合誌で執筆すること? 何かの選者になること? そうなりたいなら方法はあります。猛勉強して、批評を書きまくる。短歌を詠む人は大勢いますが、文章を書ける人は少ない。場当たり的な感想文ではいけません。短歌史と先行研究に基づいた批評を、コンテストや結社誌などに投稿しまくって己の選歌眼を磨いていけばいい。この人は書ける人だ、というのが知れ渡ればいつか依頼が来るでしょう。
(黒瀬珂瀾「短歌のペイン・クリニック」「NHK短歌」2021年11月号)

 

引用しながら今もやや苦笑しているのは、筆者自身が現にこうして、短歌に関する媒体で文章を書いているからだ。残念ながら、筆者の場合は好き勝手書いてきただけだから「猛勉強」した記憶はあまり無いし、10年書いてもいざ本にしてみたら200ページほどにしかならないのだから「書きまく」ったわけでもないわけだが、有り難いことにこうして依頼をいただき書いている。

黒瀬による回答は「華々しい活躍をする同年代の歌人に対して強い嫉妬心があります」という「お悩み」に対するものだった。賞や歌集という「華々しい活躍」の分かりやすい指標を用いる立場からすれば、結社内の評論賞を受賞したきりである筆者などは、それこそ憎しみの対象になり得るだろう。そして同じような憎しみを、筆者自身もかつて他の誰かの「活躍」に対して向けてしまっていたような気がしてならないのである。

新人賞や原稿依頼の話になると、どうしても暗い気持ちになってしまうのだが、よくよく突き放して冷静になってみれば、ある媒体で毎年繰り返される新人賞というのは「今年のイチオシ作者および作品」以上でも以下でもない。書き手の発掘、というのは「イチオシ」の書き手がそれ以降の原稿依頼にちゃんと応えられ続けた時に初めて言えるのであって、毎回の「イチオシ」が「おなじみ」や「お墨付き」になるかどうかは、それこそ選考委員も編集部も分からないし、分からないからこそ時に賭けに出る。加えて、「イチオシ」や「お墨付き」という評価も、場所や基準が変われば当然のごとく変動する。笹井宏之賞が次席ではなく選考委員の名を冠した個人賞を与えていることは、それこそ評価の可変性の証左だろう。本来はそう簡単に「外」として単純化できないものであるにもかかわらず敢えて一元的評価モデルの幻想を抱いてしまうのは、「活躍」を通じてのある種のゴールを最初から想定してしまっているせいであり、不要な「外」をそれこそ意識の外へ排除しようとしているからではないだろうか。

本来の「活躍」とは、年譜やプロフィールに添えられた業務報告的な活動実績一覧のことではない。言うなればそれは、現象としての「活躍」を支える精神的な持久力のことであり、自分自身の現状を認めつつ歩み続ける作家個々人の力のことだ。精神論を声高に言うつもりはない。だが、ある作品が文学として、時に現象の記述以上の何かを含んでいるとすれば――そしてそこにこそ写実と写生の差異があると思うのだが――、作品の成立に関わる精神の有り様を、少なくとも窮屈な状態で放置しておいて良いとは考えない。

「さて、それでどうしましょう? そもそも、貴方はなぜ歌を詠むのですか。歌が好きだからではないのですか?」と黒瀬は問う。思えば筆者も、短歌を詠むことで幾度も心が救われてきた気がする。そういう時の自作について、以前は「活躍」に値しないものとして卑下したり、あるいはこれを「活躍」の想定のうちに含められないかと過度に擁護したりしたが、ようやく最近になって真正面から向き合えるようになった。歌や、その歌を作った時の自分自身を承認できるようになったからこそ、無闇矢鱈に上げたり下げたりをせず受け入れられるようになったし、そこを起点にして次へ進もうという気持ちにもなったのだった。

 

 

……それだと極端な話、他者とか読者とかいらなくなりますよね、という声が聞こえた気がしたので、もう少しだけ続ける。

実際、誰かに読まれるあてもなく作品を作り続ける、ということはあり得ることだ。短歌という、時として座の文芸として語られるものに携わっていると、ともすれば読者の眼前に晒して初めて作品として完成すると考えがちであるが、創作という行為の根幹にあるのは一にも二にも孤独である。そもそも、作者とは作品の第一読者でもある。着想から時点から数刻経過した時点で、その人物は作品に対して絶対的な〈作者〉として振舞えるわけではない。

推敲や改作とは、換言すれば作者としての自己と第一読者としての自己との対話である。私たちは自作を推敲し、再読するたびに、書き上げた瞬間の心持ちを確認しつつ突き放す。忘れがたい思い出の刻印された一首であったとしても、やがては他者と化すだろう。その一方で、かつては何だか分からなかったものをどうにかして、今現在の自分たちが分かる言葉で摑み、書き記そうとする。

創作行為における作者と作品の絶えざる運動において、実は作者自身も作品にとっては外側から介入するものでしかないという事実が、今はとても心地よく感じられる。創作においても、かつては評価を勝ち取るための「活躍」モデルを想定しては、達成し得えずに終わるみずからを否定し続けてきた。今でも否定の欲望は時に渦巻くが、それでも以前よりは、運動そのものの力に身を委ねられるようになってきた気がしている。思ってもみなかったようなインスピレーションや、想定を超えた偶然の韻きと出会うだけの心づもりがようやく叶いつつある。

創作行為の結果を想定の範囲内という既知のものに収めようとしないこと。――言ってしまえば簡単なことだが、未知を生み出す自分自身を常に承認できるだけの精神的余裕が求められることは言うまでもない。

知らない、ということを詩の源泉とした詩人がいた。ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカである。彼女はノーベル文学賞の受賞スピーチで「インスピレーションとは、それが実際に何であれ、不断の「わたしは知らない」から生まれてくる」と述べた上で、次のように続ける。

 

(…)しかし、ここで聴衆の皆さんには、疑念が生じるかもしれません。さまざまな残忍な悪党も、独裁者も、狂信者も、あるいは、大声でがなりたてたいくつかのいいかげんなスローガンの助けを借りて権力を得ようと闘う煽動家でさえも、やはり自分の仕事を愛し、熱心に独創性を発揮しながら仕事を遂行しているではないか、と。それはたしかにそうです、ただ、彼らは「知っている」のです。彼らは知っているから、自分の知っていることだけで永遠に満ち足りてしまう。彼らはそれ以上、何にも興味を持ちません。興味を持ったりしたら、自分の論拠の力を弱めることにもなりかねないからです。そして、どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生み出さなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって致命的に危険なものにさえなり得るのです。
だからこそ、「わたしは知らない」という、この小さな言葉をわたしはそれほど大事なものだと考えています。それは小さなものですが、強力な翼をもっています。そして、わたしたちの生を拡張し、わたしたち自身の内なる空間の大きさにまで広げてくれるだけでなく、さらにはこのはかない地球を浮かべた、わたしたちの外の空間にまで広げてくれるのです。(…)
(ヴィスワヴァ・シンボルスカ/沼野充義・訳「ノーベル文学賞記念講演――この驚くべき世界で」、『終わりと始まり』(未知谷・1997年5月)所収)

 

みずからの言葉や着想を、「知っている」、すなわち既知のものとして扱うからこそ生まれる不寛容を、シンボルスカは拒絶する。「詩人もまた、もしも本物の詩人であればの話ですが、絶えず自分に対して「わたしは知らない」と繰り返していかなければなりません」と述べる彼女は、まさに創作行為という絶えざる孤独の運動の中に生きた人だったと言えるだろう。

翻って、短歌は「知っている」側の言葉に堕ちやすい詩型であるかもしれない。これは何も歴史的な出来事としてのみ語られるものではない。みずからを肯定できず、他者や世界といった未知なるものを受け入れずに練成された言葉の連なりは、想定通りの「活躍」を渇望し、賞賛という名の支配を求めて読者の間を彷徨い続けるだろう。その時、そこに歌は、詩は、文学はあるだろうか?

あらゆる時代の閉塞感に取り込まれず、自己否定の中毒にもならずに創作を続けたいと願うなら、孤独を引き受けるしかないのだろう。わたしたちにゆるされた、このあたたかく豊饒な未知という名の孤独を。