秋さぶる気配やや色づくと窓の森いくたびも大きたゆたひ

成瀬有『白鳥』成瀬有追悼特集号(2013年)

 

成瀬有が亡くなって2年になる。「人」、「白鳥」においてもっとも親しく接し、私の歌を導いてくれた先輩歌人であった。その喪失感は今も大きい。

成瀬が最後まで選歌を欠かさなかった歌誌「白鳥」は、「成瀬有追悼特集」号を刊行して終結した。その終刊号に歌集未収録の作品も出来る限り集めることにした。初期歌篇もおおよそは集めたつもりだが、まだ存在することは分かっている。収録した最初の作は1965(昭和40)年1月「地中海」に発表した6首である。

 

草折れば嘆きはさりぬ奥山路あまり寂しき今日の山越ゆる

ふるさとの星の多きに驚きぬネオンに慣れしわが目をこらす

 

前年の暮れに作られたものであろう。まだ国学院大学の4年次である。岡野弘彦に出会い、短歌を作りはじめてまだ間もない。「鷺」と題されながら鷺の文字が一つもないから岡野の選を経ていることが想像される。若い感傷が歌われている。

これ以前には、高校1年か2年の時、近所の神社の神主の勧めで作ったという「梅雨明けや雷雨のあとのたまり水星のうつりて夏近づきぬ」を知るばかりであるから、ほぼ最初期の短歌だと言っていいだろう。

このようなところから成瀬有の短歌は出発した。その後1971(昭和46)年5月号まで「地中海」に参加、以後「人」が創刊する1973(昭和48)年12月までのあいだ「短歌手帖」4冊に各30首を発表している(「短歌手帖」は秋山實、奈良橋善司、中井昌一らと出した同人誌)。

1965年以後47年のあいだ成瀬は短歌を作りつづけてきた。その最後が今日のこの歌である。生前最後の短歌だから辞世と言っていいのだろうが、おそらく成瀬にそのつもりはなかっただろう。まだ生きるつもりであったと思う。ただ同時にメモ用紙に記されていた「足萎えの身は真夜を覚めつつこれはアマリナガクナイなどと」とあるのを見ると、死の意識は確実にあったようである。その時の成瀬の胸中を思うと、感傷的になりたくないのだが、同様の病に私も苦しんで、それこそ同病相哀れんで慰めあっていただけに切なくなる。

2012(平成24)年11月18日、成瀬は亡くなる。突然だった。入院していることは知っていたが、まだ大丈夫だろうと楽観していた。数日前に見舞ったという知人から危険な状態だという電話を受けたのが前日だった。畠山英治と棗隆両氏が様子を見に病院へ向かった。すでに意識がないという報告に衝撃を受けた、その直後だった。二度目の電話に亡くなったと知らされる。言葉もなかった。

この歌、辞世と言っていいか問題はあるが、成瀬有が生前最後に作ろうとした短歌であることはたしかだ。亡くなった直後の病室を訪れた畠山と棗が、残されたメモ用紙から読み取ったものである。成瀬の書き文字は、なかなか読み取りにくい。しかも病床の衰弱の中で書かれたメモだから、読み取るには苦労があっただろう。しかし、読み取られたこの歌、成瀬らしい一首であった。

「秋さぶる」「たゆたひ」――成瀬歌語があり、まだ整えられていないながら全体の調べが成瀬のものだ。知らされてこの歌を読んだとき、ああ成瀬さんの歌だと思った。

窓から見る森の光景、秋の気配に少しづつ色づきはじめている。そしてその森全体が大きく揺れている。それは生命力を持った自然の推移。それを見て成瀬は何を思ったのだろうか。

この窓の外の森は、おそらく病室の窓から見えるものではない。成瀬が住まう武蔵はたての集合住宅の四階の窓から見えている神社の古森に違いない。成瀬が何度も歌ってきた森である。そうでなくてはならない。都心の病院に瀕死の状態にありながら、いのちの復活を願う心には、いつも眺めていた、また向こうから見られていた古森の大きく揺れる姿がまぼろしのように映っていたのだろう。最後の渾身の力で成瀬は、それを歌に留めようとしたのだ。

メモの様子から亡くなる前日か前々日に記されたものだと推察される。アブナイと思いながら、自然の生命力への親しみが、最後の成瀬の苦しみをいくらかでも癒やしたか。

成瀬有の作品の全貌が明らかにして、成瀬の短歌の理解が進むことを願っている。