前田康子


おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は

斎藤史『ひたくれなゐ』(1976)

 

『ひたくれなゐ』は斎藤史の第八歌集。昭和42年から50年までの歌で、失明のすすむ母と脳血栓に倒れた夫の介護に追われる日々のなかまとめられた歌集だ。

この歌は、歌集の最後の方にある一首。自分で時期を選んでいろいろと準備してさあこれで終わりますという人生の終わり方、死に方はできない。当たり前のことを詠んでいながら心に残る一首だ。上の句の台詞の部分がいい。「おいとまをいただきます」という台詞は現代ではあまり使われなくなった言葉だろう。その場から立ち去る時に使う柔らかな日本語で、立ち去り方の美しさというものを感じさせる。そんな風に美しく、誰にも迷惑をかけずにこの世を去れたらいい。病を持つ二人の家族の世話をしながら、斎藤史は同時に、自分の最期というものを常に考えていたのだろう。

 

流したるうどん(、、、)が白くおよぎゐる下水溝見えて 不意に怖る

遠き無慙かくちかぢかと眼に見せてテレビは誰のたのしみのもの

 

生活の中のちょっとした場面だがはっとさせられる。食べ切れなかったものを流したのだろうか。流すことにより自分の記憶から消え去ろうとしていたうどんが、予期せず下水溝に流れていた。「白くおよぎゐる」と自ら動き出したような描写だ。食べ物を捨ててしまった後ろめたさと、不意にそれが現れた驚きがある。

二首目はテレビの報道番組をみているところだろう。世界各地の痛ましい事件や事故が放映されている。「ちかぢかと眼に見せて」、リアルに伝わってくるそれぞれに、耐えられなくなっている心境だ。下句はひとつの問いかけになっている。

 

遠き野を救急車ゆくおそらくは(そら)よりおちし白鳥のため

死期すこし伸び縮みして 晴天の背中け寒し 尺取虫(しゃくとり)あゆむ

朱の渦をつくりつつ夜の皿の上指冷えながら柿は剥かるる

 

現実と非現実の狭間を行くような歌が多くある。一首目は、救急車のサイレンが遠くで鳴り、それは天から墜落してしまった白鳥のためだろうという。美しい失意のようなものが見えて来る歌だ。また二首目は、ひとの死期が伸びたり縮んだりするその不安感、恐れを尺取虫に重ねている。三首目は柿の皮を剥いているところ。皿の上に現れる「朱の渦」が印象的だ。そこに我が身も巻き込まれて消えてしまいそうな一瞬がある。

 

腰立たぬ夫をのせて押す車椅子 乳母車押しし日は遠きかな

 

こういった、現実そのままを詠んだものは、斎藤史にしては珍しい作品だ。夫の車椅子を押しながら、はるか昔に我が子の乳母車を押したことを思い出している。またまだ介護の歌が少なかった時期に詠まれたことも二重に、驚きをもって読まれたのではないだろうか。