産んでいない子を思うこと増えながらあかるいパンジー大きなくらやみ

小島なお『らん降る』(左右社)

一読して、同作者の第三歌集、『展開図』(柊書房)に収められた〈生まれないことのくらさとあかるさの知りようもなく日照雨は嫌い〉という歌を思い出した。また、「生まれないことのくらさ」という表現からは〈夜半覚めて蛇口に唇をすすぎおり生まれないとはいかなる暗さ〉(大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房)を想起する。ここまでよどみない流れのように私のなかで三首は繋がって、「生まれないこと」における暗闇というイメージが、このようにひとつの大きなテーマとして連想されてゆく。

小島作品においては、掲出歌も『展開図』のうちの一首も、「生まれない」ことに「あかるさ/くらさ」の両面を同時に見ていることが特徴だと言える。「産んでいない子を思う」ことと並んで、「あかるいパンジー」がある。なべてパンジーというのは、黄や紫など原色のあかるい色と、中心には真っ黒な部分があって、幼い頃などは目にするのが怖かった。顔のように見えていたのだと思う。というよりあれはあきらかに顔である。重なる三枚の花弁に目と鼻がある。「あかるさ」と「くらさ」が同時に花弁としてひらいてそこにあるパンジーの顔。たいていパンジーは花壇に群れて咲いている。町のなかのちょっとした花壇だとか公園の一隅だとか、雑草と違って人の手によって等間隔に植えられているからより気味が悪い。顔、顔、顔。いまも好んでまじまじ眺めようとは思わない。

「生まれない」という語の周辺をうろうろしながら、たとえば「生まれない」と「生まれていない」では意味合いが変わる。「生まれていない」には未然のニュアンスがあり、「(まだ)生まれていない」ということは、すなわち「いつか生まれるかもしれない可能性」を予感させる。「生まれない」にそのような未来の訪れは目下なく、フラットにそれは「生まれない」ままである。「産んでいない」にはその漢字から産む人間の姿があらわれ、「産んでいない子」というのは私がまだ産んでいない、というふうに受け取ることができる。

「生まれない」ことは、暗さのうちにあるのだろうか。「生まれない」存在を思う私たちはおしなべて、すでに、生まれている。生まれた者から見る「生まれない」存在は、さながら真空の宇宙空間に浮遊するような、あるいは光の一切通らない深海のような、広さも狭さも感じることのない、それはまったき暗闇のうちにあることなのだろうか。それこそ、あの「あかるいパンジー」のなかの暗がりのような、よく見れば色彩の感じられる、色の重なった暗さだろうか。宇宙も深海も、その暗さをじっさい見ることも触れることもできないが、パンジーの暗さには触れることができる。その暗さはいまここにある。ふと触れれば、墨汁の染みのように暗さはひろがって、「大きなくらやみ」となる。

「生まれない」ことに意味も無意味も本来なく、それはただ、いまここにないこと、であるならそこが、それが、(と指示語を用いることもほんとうには不可能な)あかるいのかくらいのかもわからない、つねに光と影がまだらに差しては消えるようなこの世界にすでに「いてしまっている」私たちが、いない存在を指して言うその不思議と、それでも考えてしまうその切実さを思う。けれどパンジーの暗やみには触れられる。こわごわと見つめ、触れることのできる暗さがここにある。

夕焼けの果てにかがやき立つ鏡 骨になるまで自分を見つむ

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