土居文恵『檸檬荘』 2026年
「似ていない洞穴はない」に驚く。洞窟は自然にできるものなのでまったく同じ洞窟はない。その土地の気候や土の成分によって多様な姿を見せるものだ。それが「似ていない洞穴はない」と言われると、洞窟内部のディティールは削ぎ落とされて、筒状の構造の内部にどこまでも暗闇が続いている、というところまで洞穴のイメージは抽象化できる。あかりがなければ暗闇の違いを認識できない。そうすると「洞穴」と「蛇口」は似たような構造を持っていることに気づく。ただ単純な図形で書けばほとんどのものは似ていると言えてしまう。「似ていない洞穴はない」が優れているのは、抽象化して考える発想のおもしろさよりも「似ていない洞穴はない」の言い方そのものの不思議な迫力にある。発想のおもしろさを伝えたいなら、
洞穴はどれも似ている とても細い水道水をカップに注ぐ(改作)
こういった言い方でも良いはずだがどうも迫力がない。原作では、「洞窟は似ている」という前提や認識の確認がなく、いきなり「似ていない洞穴はない」から歌がはじまる。唐突に宣言されるような驚きがあるのだ。
洗い物をするときに蛇口から水を細く出しておくことがある。汚れを落としやすいように窪みのある皿やコップに少し水を溜める。なんでもない日常のワンシーンが詠われているはずなのに、この歌には深い翳りが感じられる。たとえば、水を注ぐ動作に「水道水を」という細かい状況の説明が付けられていること、こういった言わなくても何も影響がなさそうな言葉があると、結句にある「注ぐ」動作よりも、その途中の水の様子を詳しく想像してみたくなる。この歌の主題は、蛇口から流れ続ける水道水を前に呆然と立ち尽くす感覚なのではないか。蛇口を捻って水を注いでいるのは自分なのだが、そこから動けずにいる。カップからは水が溢れてシンクに流れ続ける。
「洞穴」は蛇口を、「似ている」ものに加えてしまう。蛇口が似ているというなら、もはやなんでもありである。物質だけでなく、身体や心も洞穴の比喩を介して似ているものに加わっていく。洞窟の中を風が通り過ぎる。蛇口の中を水が通り過ぎる。日々の生活を、日常を、時間が通過していく。
韻律を読んでみよう。この歌はイ母音の音が全体のリズムを作っている。「似ていない」「洞穴はない」「とても細い」「水道水を」ここまですべて句末か名詞句の最後に「イ」の音がある。句末の音で言うと、初句「ない」・二句「ない」のリフレインからの三句六音の字余り「とても細い」に至る流れはかなり重たく感じる。「イ」の音は口を横に開きながら少し力を入れて発音する。そのため、文節の終わりにあると次のフレーズに移るときに負荷がかかる感じがする。それが三回連続で続くため、このあとの「水道水を」も若干強く発声する。言わなくてもわかる内容を強く言っている感覚はこの辺りの構造による部分もあるかもしれない。
