うそ(変換)嘘、って入力するまでに列車は揺れてホームを離れた

穂崎円『オメラスへ行く』(典々堂)

朝の通勤電車での一場面として読んだが、時間の描写はなく、夜かもしれないし、昼かもしれない。列車の揺れを感じていることから、主体は混んだ車内に立っていて、スマホに目を落としながら、ふいに動き出した電車の動きに自然に揺れを受け止める体勢をとったのかもしれない、と思う。

LINEなのかメールなのか、XなどのSNSなのか、向こう側に誰か読む相手がいる言葉として、「うそ」と入力していた文字を「嘘」に変換した。スマホにせよパソコンにせよ文字を打ち込むというのはつまりつねに(変換)(変換)(変換)の作業であるとも言え、おりしも電車が発車する。打ち込む文字の変換、表記を変える、また戻す、そういう仕草を私たちはおそらく毎日のようにやっており、短歌を作るときはもちろん、そうでなくとも相手によって、状況や文脈によって表記で迷う、迷って変える、ということをやっている。それも繰り返すうち、自分のうちに固定化されたこの言葉のこの表記、というものが生まれ、使ううちにそれは馴染んでいく。ひらがなに開くのか、漢字を使うのかによってもちろんニュアンスは異なるから、考えながら、というよりもはや親指が先に打つほうが早く、そんなふうに表記の使い分けをこなしている。

「くま」なのか「クマ」なのか「熊」なのか。『神様』(川上弘美)に登場する「くま」は作中で一貫してひらがな表記だが、最後に一箇所だけ、「熊」と書かれる。「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」。熊の神は概念めいて、触れることはかなわない。「林檎」も「鴎」も漢字はめったに使わない。「うそ」よりも「嘘」のほうが改まった堅い感じがする。変換して「嘘」が先にきて、急ぎながら打った文字を読み返して後から「うそ」に直すというのはなんとなく想像できるが、「うそ」を「嘘」にあえて変換し直す、そこにはそれなりの意思がある。「うそ」ではなくて「嘘」であると伝えたい。誰の何が「うそ」ではなくて「嘘」なのか。「ウソ」の可能性もあったが、「ウソ」の嘘性というのか扁平な感じはやっぱりあって、なんだかんだ、「うそ」が一番当たりさわりがなく使い勝手がよさそうだ。「うそうそごめん!」などと気安い相手に使う。「うそつかないでよ」「嘘つかないでよ」「ウソつかないでよ」。並べれば漢字が一番ふざけておらず、ニュートラルに相手の嘘を糾弾する響きがある。

乗った電車が発車するまでのつかのま、といっても数分もあればけっこうな間、画面のなかで、ととととと、と指を蝿のように動かしている。いつかの自分がそっくりそのまま、そうしていたかもしれず、同じ場に居あわせた無数のひとりとして、知らないままに、そんなことがあったかもしれない。いま動き出した列車は、主体とそれ以外の多くの人間を乗せてどこかへ運ぶ。

言わないと決めた言葉を思うとき膨らんでいく冬の鳩たち

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